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画面の向こうの出来事だった

息子を出産して1年ちょっとの頃。
仕事も復帰し、その日は高齢者施設での入浴介助を終え、ホールに戻ってきた時のことだった。15時半を回っていた頃だろうか?

事務員さんが教えてくれた。
「大変なことが起きた!」
ついていたテレビでは、東北地方で大きな地震が起きたこと。それに伴った津波が起きたことを繰り返し言っていた。

そして

画面の向こうで、黒い波に町が飲まれていく映像が流れていた。
仕事中にも関わらず、ハッといきをのみ、画面に釘付けだった。


10年前のことである。でも、あの時の胸が抉られるような…どこか「日本のことではないような?」と余所事のように思った感覚は今でもハッキリと覚えている。

2011年3月11日 14時46分
東日本大震災 発生

その時から、新聞の番組欄は真っ白のまま家に届くようになり、連日連夜、現地の状況を伝える映像ばかりになった。

毎日毎日増えていく死亡者行方不明者の数。
明るみに出る被害の数々。


そんな事実を目で見たとき、私は「とんでもないことが起きている」と得体のしれない恐怖に襲われた。平然と仕事をしていること、生活をしていることが申し訳なく思えた。とにかく苦しかった。

今ほどSNSも発達しておらず、この言葉に出来ない「画面の向こう」にいる人間の苦しみを吐き出す場所なんてなかった。


あれから10年の月日が流れた。
世間では「節目」だとみんなが言う。

私はなんだかその言葉が苦手だ。

私は当事者ではないので、多くを語る資格はないし、憶測になるんだけど…


あの日、あの地にいた人々は
私なんかが想像も出来ないような…想像出来る範囲をこえるような…
絶望の中で戦っていた
生きようとして必死だった
突然家族がいなくなり、立ち尽くしていた

そしてこれらは過去形ではなく、現在も続いている。戦っている。
生活なんてやめたくなるような絶望の中で、この10年、歩を進めてきている。

だから「節目」という言葉なんかで、区切りをつけるみたいなのに違和感を覚えるのかもしれない。

被災地域と、それ以外の地域での認識の違いは絶対にある。その立場でしか絶対に分からないこと、沢山ある。
でも、「どうせ分かってくれない」と言うばかりでなく、歩み寄ることは必要だと思う。お互いに…


被災した地域の人々は毎日のように、あの日のことに思いを馳せ、亡くなった大切な人やモノを思う日々は続いている。

画面の向こうで見ている私は、せめてその日だけでも被災地を思い、日頃の防災意識に目を向ける。
そして、「いつも通り」のありがたさをかみしめて生活する。


被災した地域の方が話していた。
「会いたいと思ったら会いにいく。声が聞きたいと思ったら電話する。すぐ連絡とる。
それが出来なくなることの悲しみと後悔を抱えて生きていくの、つらいから」


教えてくれてありがとう。私は今日を精一杯生きるよ。辛い時には空を見上げると、涙はこぼれ落ちることなく、そして「同じ空の下」で生きていることを感じることができる。

(2021.3.11 のこちらの空は不機嫌だった…)

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「画面の向こう」ではなく、「同じ空の下」


犠牲になられた方々の、ご冥福をお祈りします。

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