太田愛美

芸術と意識の観測

太田愛美

芸術と意識の観測

最近の記事

今年は

今日、急に あれ、前からやりたかったこともう出来るんじゃね???????? となり、ほな次どうしようかと考えているところである。 あっさりと出来そうなのだ。 今年はこの12、3年間この人に会ってみたいな〜しゃべってみたいな〜なんか一緒にやりたいな〜〜〜とずっと思っていた人たちに会うことになるのかもな〜〜〜と思っている。 ただそれと同時に、今この人に会ってみたい!とかライブ行きたい!と思うのは絶対すぐ行っとくべきだとも思う。 なぜならその12、3年の間の、そう思った

    • 予が大事って話

      珍しく音楽の話を。 最近よく感じることだが、演奏する時にその曲に必要なテンション(音や空間の張り具合)に達しているか、ということが意外と見過ごされているんじゃないかと思う。 ピッチや縦を合わせることに目が向きがちだが、その曲の場面に必要なテンションをちゃんと前もって準備できているのか? ボールを投げるのも手からボールが離れてからコントロールをするのは不可能なように、投げる前の予の時間が大事。 プロの奏者じゃなくても、アマチュアの人でもそこが腑に落ちれば勝手に演奏ってい

      • awake

        最近急に眼鏡をかけた自分の姿に違和感を感じるようになった。 おかしな話だが眼鏡をかけていない素の自分にようやく見慣れた。 私は元々そこまで目が悪かったわけではない。 でも眼鏡をかけ出した頃はどこか自分の姿を少しごまかしたいような、 少し隠れたいような、そんな気持ちからかけ始めたような気がする。 本来の自分を受け入れ始めた時、とびきり不細工でもとびきり美人でもない自分の顔を急に受け入れられるようになってきたのである。 それに気がついた時のことも覚えている。 誰かに誉めら

        • 始まりの日に

          こんにちは。改めまして太田愛美です。 すっかり春、というよりかはそれをも通り越して夏日のような天気ですが紫外線が怖くて部屋にいながらこの文章を書いています。 これまでの自分とこれからの自分のベクトルが変わっていくであろうという予感しかないので、その記録として今現在自分が考えていることを残しておこうと思います。 2009年、2010年頃からずっと考えていたことがある。 いや、もっと前からかもしれない。 でもそのやり方が分からなかった。それ以前にもっと自分自身が入り組んで

          switch

          今までやっていたことは迷うこと。 何が正解で何が間違いで これをしたら嫌われるか、何をすれば受け入れてもらえるか そういうことばかり考えていた。 今は決めるに変わった。 私はこれをやる。主語が他から自分に変わった。 私はこうしたい。こんな存在でいたい。 もはやこういう存在である。 そうするとやることがはっきりした。 後先を考えなくなった。 やる意味を考える”意味”が消失した。 なぜなら”自分がやる”と決めたから。 意味を聞かれたらただそれだけなのだ。 理由や根拠を探して

          one

          誰もが架空の自分の姿を作り上げている ただそれを認識しているのは自分しかいない こんな人間だから、と選択を誤る でも周りの人間はとっくにその人の本当の姿に気がついている それに気がついていないのは本人だけ

          真摯であること

          自分に対して真摯でありたい そう思う。 過去の自分ははっきり言われることが苦手だった。 海外に居た時も、それってどういう意味ですか? あなたの言っている意味が理解出来ません。 と言われることがあった。 仕事でも自分の意見がはっきりしていて、それを言ってくる人が怖いと思うことが多かった。 でも同じ時間を過ごすうちにそういう人たちは怒っているわけでも我を通したいわけでもなく、単純にこうして欲しい、あなたの言っていることが分からないと事実を伝えてくれていただけだったのだと気がつ

          真摯であること

          space

          昨日昼寝をし過ぎたからだろうか、今朝はゆっくり起きればよかったのに目覚ましの時間より二時間も早く目が覚めた。 もうすっかり春の日差しになり、二度寝しようとしても結局携帯と睨めっこするだけになりそう。 珍しく起き出してぼーっと外の景色を感じながらコーヒーを飲んでいた。 そうしたらドイツのSachrangという村で行われているシェレンベルガー主催のマスタークラスに参加した時のこと、その時の自分が受けた感覚がわーっと思い出された。 あの空間でのブルグの日々のレッスン、何か音楽

          unconscious

          無意識下に事が進んでいることはよくある。 いくつかの点がふとした瞬間に全て繋がっていることに気がついた時にその無意識下の自分の動きに驚くことが多々ある。 去年の秋ユングや河合隼雄の本をよく読んでいた時期があるのだが、彼らの言うコンステレーションという言葉は正にこのことだと思う。 そしてその小さいコンステレーションすら全て飲み込んでしまうほどの大きな布置があるのだろう。 いつだったかはっきりとは覚えていないが、確か大学4年生の時湯浅譲二のCDを買った。まだ実家にあるはず。

          3つのこと

          フランスの学校にいた時、期末の実技試験で試験官の先生に言われた言葉。 演奏をする時は3人の人が聴いていると思いなさい。 一人は自分の先生。 一人は別の専攻、別の楽器をやっている先生。 そして最後は、音楽を学んでいない一般の人。 なぜなら今日の公開試験でも扉は開けられていて、誰でもあなたの演奏を聴くことが出来るから。 この言葉を言われた時、めちゃくちゃ腑に落ちた。 ことある毎にこの言葉を思い出すのだが、最近また思い出す機会があった。 私は去年の年末、カウンセリングを始め

          3つのこと

          accept

          留学1年目の年度末の実技試験の時、その学校の木管楽器の主任の先生に 君の演奏はcleanだね、と言われたことがある。 時たまその言葉を思い出す。 今となってはその人の真意は分からないけれど、私をとてもよく捉えた単語だと後から唸った。 ふと、その人が当然のようにやっていることが芸術になるなり、飲食業になるなり、そういうもんなのかと腑に落ちた。 芸術家になりたいから〇〇する、のではなくて、元々そういう視点で世界をずっと見ている。そういう感じか。 "clean"な自分のまま

          point

          身体性と精神性、陰と陽 2つの異なるものをどう取り扱っていくか 何を基準に自分の作品を作っていくか 自分が話したことに目の前の人がどんな言葉、単語を出してくるか 壁にボールを投げてどんなスピードで、どんな軌道でそれが返ってくるか 自分がどんな概念の中にいて、何を選択して生きていくのか

          自分からの許可

          同じことをやるにも それに自分で許可を出せているか それがあるかないかで全く違う 周りから見て同じことをやっているように見えても 自分の中の状態がまるで違う 自分で許可を出せていると 後ろから押されているような 推進力で進むことができる 自分で許可を出せていないと まるで逆方向に引っ張られているような感覚になり 前に進みたいのに自分で後ろに引っ張っているような気持ちになる それが苦しい原因 ずっと前から私は周りの人から そのままのあなたでいいと言ってもらっていたのに

          自分からの許可

          身体のしたいようにさせてあげる

          ちっちゃい子どもを遊ばせてあげるように 自分の身体が動きたいようにさせてあげる 疲れてしんどい時は 自分の身体を休めてあげる もっと動きたい時は 動かせてあげる 自分の身体が自分の子どものように 自分の意識が親のように

          身体のしたいようにさせてあげる

          求めていたものは他人からの許可ではなかった

          今日やっと謎が解けた ずっと自分が本当に求めていたこと 自分の生まれ、自分が持っている特徴、起こった出来事、すべてはつながっていて 自分がぼんやりとイメージしていたことをなぜできないのか ずっと疑問に思っていた 人間は他人からの賞賛や許しを得たいのではなく 自分からの許可を得たい 自分で自分を許したい 誰かに許可してもらえば 誰かに出来ると言ってもらえれば いつか出来ると思っていたけど そうじゃなくて 自分が本当に心からそれでいい それをやっていい 自分自身を認めて後押し

          求めていたものは他人からの許可ではなかった

          身体の声を聴く

          昨日の午前中で仕事納めして、新幹線で実家に帰省。 最近前に比べると本当に頭でずっと考え事をしなくなった。 移動中なんか特によく考え事してたけど、今回はボーッとしながらじゃがりこぼりぼり食べて昼寝してた。 そして、今日は元気。 あったかいのもあるけど、やりたくないって思ってるけどやっといた方がいいかな・・・っていうことをしなくなったり、ぐるぐると頭の中で考える時間が減ったからたぶんめっちゃ元気なんやと思う。 帰省するとここを掃除したいとかあれやらなこれやらなっていうのがすご

          身体の声を聴く