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屋久島と。

2023年10月、屋久島を訪れた。10年ぶりだった。
前に来た時は、大学時代の友人たちとの旅だった。その中に『もののけ姫』が大好きな友達がいて、白谷雲水峡(別名、もののけの森。映画『もののけ姫』の舞台になった場所)で映画の音楽を流したりしたっけ。それほど、もののけ姫が好きだった。そして、苔や森も。その昔、何度も映画を観すぎて、セリフをだいたい覚えてしまうくらいに。

何かに惹かれる、ということの理由は分からないことが多い。ただ、惹かれるのだ。それは、きっと人生の羅針盤なんだと思う。

「何かに導かれてやってきた」

そんなことを感じたりしませんか。
きっと、誰もが、何かに導かれて、その唯一の人生を歩み創造しているだと思う。

屋久島から返ってきた次の日から、それまでと同じようにネットに触れたり、仕事をしたりしていた。眠い。とにかく、眠かった。それは、自然や大地や宇宙の流れと切り離されてしまった感じ。それは、多すぎる情報と早すぎる何かにおぼれていく感覚。屋久島から飛行機で一瞬で帰ってきてしまったからだと体が教えてくれていた。4次元の中で人はそんなに早く移動してはいけないんだよ。

地球といっしょに生きるということは、そんなにも難しくないはずだ。それはいつもそこにある。太陽も空も雨も風も、虫だって。ただ、日々の忙しさの中では、地球を十分に感じられる余白が自分のなかに生み出せないのかもしれない。風が通る道が自分の中にもあることを忘れてしまっている。「それは寂しいな」そんな気持ちが、この文章を書き始めた理由だったりする。

今回の屋久島はEarth Partnerが行うセレモニーに参加する旅だった。「もっと地球と仲良くなりたい」という想いが参加の理由なんだけど、きっとほかにもあったかもしれない。

Earth Partnerとの出会いは「ネイティブアメリカンの智慧」というキーワードが連れてきた。「ネイティブアメリカンの智慧」は、私のスクールソーシャルワーカーのアドバイザーが「Restorative Justic-修復的司法-」という修復的な対話の手法を学んでいるところから私の前に現われた。そのアドバイザーがいる自治体には、ソーシャルワーカー1年目で挫折した時、ここでもダメだったらもうやめようと、すがる思いで流れ着いた場所だった。(ちなみに、そのアドバイザーはプロセスワークの本も貸してくれた人)

修復的対話のサークルになって語ることを初めて体験した時、とても安心したことを覚えている。初対面の人に親近感を覚えた。今思うと“人々”の入り口に立った感覚だったんだな。そこから私は、意図を置いて人が輪になった時に現われる「場」というものに惹かれ、興味と信頼を向けていくこととなった。流れるように、今ここにたどり着いた。

Earth Partnerが体現する「地球といっしょに」も、
プロセスワーカーのDayaさんから教わる「プロセスマインドといっしょに生きる」も、わたしにとっては同じことだ。

恐れや思考にまみれて、何かに抵抗してコントロールしたがる慣れ親しんだ意識とはちがうもの。近くだけどまったく違うところを流れる大いなる流れそのものを、より近くで感じていたかった。それはきっと知っている何かだ。感じるだけではなく、それと共に生きていくことが、自分の目指す全てに通じる源泉みたいに感じているから。

私たちはこの現代を生きる中で、多くのことを忘れているらしい。
自分は何者であるのか、何のために生まれてきたのか、何を切望しているのか。
遠くなってしまった響きも、さまざまな出来事や、何かに惹かれるという体験を通して、世界は自分に伝え続けてくれている。それが羅針盤になっていく。きっと大切なのは、羅針盤の針が触れるその揺れを受け入れることと、いつも指し続ける方向に見える世界は自分唯一の世界観であるということに気づくことかもしれない。

「あなたには何がみえているのですか。」

という問いが気に入った。
仲間がかけてくれた問いだった。

「あなたは“だれ”ですか。」

という問いは、自分の奥底にズッシリと沈んでいく。

世界がどのように自分を通して現れようとしているのか、私たちは“知っている”し、ずっと“見てきた”。なんなら、すでにその一端を“生きている”。
もっと自覚的に生きろ、ということのようだ。

「The world needs you.」

いつの日かのプロセスワーク創始者のアーノルド・ミンデル氏が言った言葉が忘れられない。心に残っているのは、放たれた響きがあたたかくて、曇りがなかったからだと思う。ほんとうにそう思ってくれていることがありありと伝わったからだ。

諦めなくていい。私たちは世界を変えることができる。自分自身がその変化の源となって。自分ひとりではなく、みんなといっしょに。地球といっしょに。


あ、そうだ。ハエについて、すてきなお知らせがあったから記しておこう。

ねーちゃんが死んでから、ハエがとても近い存在だった。
ねーちゃんの葬儀の間、1匹のハエが私たちと共にいた。
田村由美さんの『BASARA』という漫画を知っていますか(読んだことないなら、読んだ方がいいよ)漫画の中で、主人公にとても近い人が絶命する瞬間、目の前を飛んでいた一匹のハエに自分の念を送る場面がある。大事な人を見守るため、きっと次の世を見るため。

その物語を知っていたから、葬儀の時に現われたハエにとても親近感が沸いて。もしかしたら、ねーちゃんが見守ってくれているのかもしれないと思うようになった。それから、なんだかハエが度々わたしの前に不思議な様子で現れることが増えた。弱ってもいないのに私の手に乗って、撫でさせてくれるハエが現れたり、素手で捕まえさせてくれるハエがいたり(捕まえるんかい)。今回のセレモニーの後半も、わたしのラピスラズリの石にずっと留まっていたハエがいた。

屋久島から帰ってから、ずっと気になっていたけど読むことを後回しにしていた本を手に取った。『旅をする木』写真家の星野道夫さんの本。(星野さんの写真も見たほうがいいよ、やばいから)そこにこう書いてあった。

ぼくはいつか読んだ、ナバホ族の神話に出てくるハエの話を思い出しました。そのハエは、人間が砂漠を歩いているとき、時々飛んできては肩に止まります。ナバホの神話では、そのハエは″小さな嵐”と呼ばれ、試練を課せられた幼い英雄の耳元で、父親の出した難問の答えをそっと教えてくれるのです。つまり隠れた智慧を明かしてくれる聖なる霊の声なのでした。

『旅をする木』星野道夫著

どちらにしても、心強くてあたたかい風だ。

To be continued.

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