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一枚の落ち葉が教えようとしてくれていること

何かものを書く時に感じる、「意味のあること」や「価値のあること」を書かなければいけないのではないか、という切迫感のようなもの。ずいぶんと(というよりは当たり前に)、現代の生産性第一!みたいなヤツに自分も絡みとられているなと思う。表現したいと思った衝動に意味を持たせず、ただ書いてみることに身を委ねても誰も何もいいやしないのに。

自分の「書いてみたい」の奥には何があるんだろうか。なんとなく、今あるのは「感じる」ということにスペースと奥行きを与えたいような感じがある。なんとなく。

わたしは結構、前置きが長い。前置きというか、意味のないつぶやきだけどね。

「交感神経がめっちゃ活発になっていくのを感じる…」とつぶやくわたし。この空間にいるだけでザワザワする。仕事でとある大規模小学校の職員室に座っていた時のことだ。

職員室のあちこちで、動きがある。人が動く。話が飛び交う。様々なストーリーが背後に流れている気配が強い。気があがっている。同時に自分の気もあがっていく。そんなことを客観的に観察できている時点でどこか余裕があるんだろうけど、とにかく身体反応がすごかった。

「よし、副交感神経スイッチ入れよう。」と自分の呼吸と身体感覚に意識を向ける。意図的に呼吸をゆっくりして、自分の身体の重みを感じる。存在の輪郭がはっきりする。頭ばかり働かせてる時って、ほんまに自分の身体を置いてきてるんだろうな。働いている時点で副交感神経が優位になることなんてないだろうけど、抗ってみた。

「今日、たからもっさん、なんかゆったりしてますね。」と、よくしゃべる先生に声をかけられた。
え、すご。こういうのって伝わるや。そう思って、「副交感神経を優位にしてるんす。」と、自信をもって答えた。この学校の先生方やスクールソーシャルワーカーに尊敬と労いの気持ちを持ちながら。

そんなこんなで、学校去る時、自分の自転車のカゴカバーの上に一枚の落ち葉が乗っていた。それを知覚した瞬間、フワッと自分の世界がその一枚の葉っぱに引き付けられる。わたしとその落ち葉しか存在しないかのように。

おぉぉ。魅せられている。(プロセスワークでいう「フラート」)
やわらかく、でも確実にそこにただ存在する葉。
ただ、存在する。

それは「今、ここ」を象徴するものだった。めまぐるしく駆け巡るたくさんのことを私たちは抱えているけれど、「今、ここ」に勝るものはない。それなくして、なにもない。そんなことを教えてもらっているようだった。一枚の落ち葉はわたしの世界にそう映っていた。

お知らせありがとう、世界。わたしはいつでも、そこに戻っていけるよね。

あなたが最近魅せられたものはなんですか。

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