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プロットとは何か

 繰り返し何度も断り書きを書くことになると思うが、くどくなるのを承知で断っておく。
 小説の書き方にセオリーも王道もない。
 原稿用紙の使い方、原稿の書き方にルールはあるけれど、「小説をどう書くか」に規則や原則があるわけではない。
 ここに書かれることも現時点での僕の私見でしかなくて、普遍性などこれっぽっちもない。数多くある参考意見の1つにすぎない。

 プロットは「絶対作らなければならない」というシロモノではない。また「プロットなしに小説は書けない」というものでもない。
 ミステリーだからプロットが必要、私小説だからプロットは不要とも言えず、結局は作者の好み —— 作るかどうかは本人次第ということになる。

 着想を得たものをどうやって小説に仕上げてるために全体像を想像する機会が一度はある。
 プロットを作るかどうかは、その全体像を視認可能な状態にするか、それとも自分の頭の中で完結させるかの違いでしかない。プロットを作ろうが作るまいが、似たようなことは必ずやっているというわけだ。

 プロットがどうこうなどと考えもしなかった頃、物語などというものは水が高いところから低いところへ流れるように、行き着く場所に行き着くものだと考えていた。
 作者がコース取りなどせずとも、いつかはちゃんと結末にたどり着く。
 現実世界と同じく、どこをどう通るかがわからないから面白いのであって、作者が意図的にコースやゴールをセッティングしてしまったら、そのレールの上しか走れないご都合主義になってしまうではないかと、そう考えていたのだった。

 もちろん、その考え方は間違っている。
 コースが決められていても毎度必ずドラマは起きる。
 オリンピックのマラソン、スケート、ハーフパイプ、何でもそうだ。予想外の展開があり、葛藤があり、歓喜がある。
 コースが決められていても、だ。

 モノの本によればプロットは小説の設計図のようなものだという。
 設計図に書かれた通りに組み上げていけば設計図通りのものが出来上がる。自動車であれ、タワーマンションであれ、小説であれ。そういうものだと思っていた。でもそれはある部分では正しく、でもそれだけではないという気がしている。

 設計図は複数の人間が効率よくモノづくりをするためには役立つ。
 誰が作っても同じ結果になるように、細部の細部まで設計され、手順が決められる。だが作業の大半を一人で行う小説でそんなことが必要なのだろうか。そんなシロモノに設計図が要ること自体、妙なことなのではないか。

 つまるところ、プロットとは小説を執筆するにあたってのコースガイドなのだといまは思っている。
 着想を得たものをちゃんと結末まで導くためにはガイドが欠かせない。
 すべてを一人で行う作者は、コースガイドも自分で作らなければならない。それが目視可能な状態になったものがプロットなのだろうと思う。

 まずはプロットとはなんであるのかをはっきりしておこうと考えて、頭の中から引っ張り出してみた。

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