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多趣味人の理想の家

 ここ2日間、デスクの上が趣味の作業場になってしまって、パソコンを開くこともままならない状況だった。
 幸いなことに新しく趣味のラインナップに加わるものは今のところ見当たらないが、これまでやってきたことが収斂されるわけでもなくて、結局は気の向き方一つであれこれと手を出す羽目になる。
 こうなったとき、使える場所に限界があることが足枷になってしまう。
 何かをしようとすれば何かはできず、一つのことを中断して、後日続きをやるということができない。これは結構な制約になる。
 小説を作ることは残念ながらまだ趣味の範疇を抜け出せないのだが(もっと本腰を入れろという話でもある)、落ち着きがなく、飽きっぽさにかけては他の追随を許さない困った性格なので、一つに集中することは相当に難しい。多趣味はその性格が災いした結果というか、成れの果てであることは間違いがない。

 自分で趣味と認識しているものに通底するのは「手を動かす」ことだ。
 料理、日用大工、製本、装幀、版画、最近初めてやったジーンズの補修等々、どれもこれも手を動かすものばかり。何かを作っていさえすれば楽しい。仕上がりの良し悪しなどお構いなしで楽しむことができてしまう。
 ただ、それらはどれも場所を取る。道具にしても材料にしても。

 祖父は樵をはじめとする山仕事から転じて木材加工の仕事をするようになった人なので、晩年まで自身の趣味の工房を持ち続けていた。
 引退して、作業場を閉じて母屋を立て直したときも、かつては納屋だった小屋は潰さずに、自分の工房として丸鋸を据え付けて、器用にあれこれと作っていた。
 壁には用途の違う数十個の鉋や鑿がかけられていて、子供の頃の僕には祖父の工房は憧れの場所だった。
 祖父からは刃物の使い方や木工の基礎を教え込まれ、その影響が今も尾を引いているわけだ。

 身体に染み込んでいる趣味を今更やめることなどできるはずもなく、とはいえ趣味に当てがえる場所は限られているとなれば、あとはできることは「場所を増やす」だけだ。
 思えば自分の理想の住まいは、煮炊きができる竃、土間と床板剥き出しになった作業部屋、書き物をするためだけの静かな部屋、壁面が全て書棚になっている廊下がある家だった。
 それらは祖父母の暮らした古い母屋にあったものに、僕が望むものを付け加えただけの家になる。
 祖父母の教えが今も身に宿っているということになるかもしれないし、裏を返せば実は祖父も僕と変わらぬ趣味人だったのではないかと想像してしまうのだ。


(追記)
 読書は手を動かさない唯一の趣味なのだけれど、そう考えると小説を書くこと自体が読書趣味の変成のように思えてしまうので、それは必死で別物だと思うようにしてます(笑)。

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