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読書記録『ふしぎなキリスト教』

今年最後に読んで、いちばん面白かった本。
今年は読書量もそこそこ多くて、記録を見ると270冊ほど読んでいたようだけれど、最後の最後にいちばん面白いものに当たった感がある。

キリスト教の成立に関する本はたくさんあるが、どれも信仰を前提にしてるというか、部外者の立ち位置からだと客観性に欠けるというか、腑に落ちないものが多い。
誰が何を信じるかなんてことは、それぞれが勝手に信じていればいいのだし、一方で僕みたいに興味と関心はあっても神どころか人も社会もイマイチ信用ならないと思ってるような輩がいるのも仕方がないと思っている。
その上でこの本は僕が感じていたキリスト教の奇妙さと違和感、高度に文明化して発展が止まらない現代社会とキリスト教が並存可能な理由など、不思議に思っていて、誰にも聞けなかったことが多く書かれていた。

「2020年も今日で終わり」と平気で書くが、「0年」は言うまでもなくキリスト基準。「紀元」と呼ぶのも奇妙に感じるけれど、イエス・キリスト生誕の300〜400年前にはソクラテスやプラトン、アリストテレスがいたわけで、彼らが当時考えついた哲学、自然科学が進化展開していかず、やれ「水の上を歩いた」とか「手を触れただけで見えない目を見えるように治した」とか「磔刑の3日後に蘇った」とか、どうしてそういうスーパーナチュラルな方がメジャーになっていっちゃったのかなあと、僕のような不信心者は首をかしげるわけです(だってガリレオが異端審問で「それでも地球は回っている」と呟いたのなんて、キリストが生まれて1600年も後ですからねえ)。

そもそも「一神教なのに「神の子」がいたら、神様二人になっちゃうじゃん」とか「一神教なのに民主主義ってどうよ。そこは神様が主じゃないとまずいんじゃないの」とか「そもそも全知全能なのに食べちゃいけないリンゴを実らせちゃうとか、食べろとそそのかすヘビを創っちゃうとか、そそのかされてまんまと食べる仕様に人を創るとか、片手落ちじゃん」とツッコミどころは満載で、それでもこれほどまでに影響した理由はなんだったのか、長いこと「?」が頭に浮かんだままだったのが、「なるほどね」と腑に落ちる程度にわかったのはこの本の収穫だった。
僕に足りなかったのはキリスト教そのもの以上に、キリスト教を信仰する人間をどう理解すればいいかだった。

日本人は無宗教と言われるけれど、八百万の神を緩く信奉する程度には「信じる」ということに抵抗のない人たちなわけで、それがどうして「宗教」と聞くと若干の抵抗感を覚えるのか、それもなんとなく理解できた気がした。
いや、実に面白かった。
そして雑だぞ、雑すぎるぞキリスト教(それこそが広まった最大の要因なのだろうけど・笑)。


(余禄)
仏教も、釈迦が生まれてすぐに「七歩歩いて天地を指差し『天上天下唯我独尊』と言った」とか言わなかったとか、相当な盛り方だけど、悟りを開いても周りに勧められるまで広めようとはしなかった(梵天勧請)とか、「言ってもわからない。わかるようなことでもない」みたいなやる気のなさというか(悟りってのは一見そういうように見えるのかも)、信仰の対象というより、どこまでも「ハウツー」に思えてしまう。
「こうすれば悟り開けちゃうよ」というのと「こうしたら痩せますぜ」というのは何も変わりがないので、「釈迦=ビリー隊長」みたいに思えてきてしまうわけです。どうもすみません。
ま、鰯の頭と同列に扱われるよりいくらかマシということで。

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