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葦簀(よしず)で日陰をつくる

 実年齢と中身のギャップが激しすぎて、社会生活の中で自分が一体どのあたりに存在しているのか皆目見当がつかない。
 社会的地位とかではなく、人間としての成熟度とか、そういった類の数値測定不能な尺度で自分の立ち位置を図式化したとしたら、あまりのガキのまま成長していなさ加減に驚愕と納得感が両サイドから押し寄せてきそうな感じもする。

 とはいえ、それはあくまで僕個人の内面的な話。
 そんなことは無関係に社会はゆったりと、でも確実に変容・変化している。僕が10代だった頃に当たり前に通用していたことが全く通じないことも珍しくない。

 常識が変化したとか、価値観が変わったなんて大げさなことではなくて、日々の生活の中でごく自然に使っていたものが使われなくなってしまい、モノの名称すら生活の中から消えてなくなってしまっている、そんな類のことだ。

 先日、若い友人がベランダに当たる日差しでエアコンの室外機が熱くなってしまって困ると聞いて、「だったらベランダに葦簀よしずでも立てたら?」と言ったら、「葦簀よしず」が通じなかった。
 庭の広い家や、地方ではそれほど珍しいものでもないし、「すだれ」という言葉自体が死語になっているとも思えない。どうやら友人の頭の中では軒先に立てかけて日陰を作る「立て葦簀」とすだれが全く結びつかなかったらしい。
 個人の知識が云々という話ではなくて、地域性とか環境とかで長く使われてきた言葉ですら簡単に消えてしまうのかもしれないと思ったのだった。

 厳密にいうと「簾」は細く割った竹を編んで吊るしたものだそうで、高貴なお方の前に垂らして目隠しにする「御簾みす」が本来の意味のすだれなんだそうだ。
 日常、軒先に吊るして日差しを遮るものは「よしずだれ」と使い分けられていたらしいが、別物扱いする理由が「簾」との格の違いなのだとしたらなんとも日本らしい。
 「あし」は「悪し」に通じると、わざわざ「ヨシ」と読ませてなお「簾とは違うからねー」と区別する面倒臭さ、明文化されないニュアンスで差をつける精神性は形を変えて今もしっかり残っている気がする。

 手仕事好きとしては、河原で立ち枯れた葦を刈ってきて、葦簀を作ってみたいと前々から思っているのだが、何せ持ち帰るには背が高い。
 その場で不要な部分を切り落として持ってくるわけにもいかないだろうし、実現にはもう少し時間がかかりそうだ。

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