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劣等感はない、好き嫌いはある

昨日、自分の声が嫌いだと書く前に、「これはコンプレックスなんだろうか?」と考えた。

自分の声が嫌いなのは、目的を達成しようとするときに、自分の声が障壁になってるというジレンマだからで、首を締めて出汁でもとってやろうかというほど憎んでいるわけではない。
解決不能なことだから、嫌いになるくらいしか手の施しようがないという感じだ(トレーニングとかすれば、もしかしたらいくらかマシになるのかもしれないけど、そこに労力を傾ける気には……)

コンプレックスがある種の劣等感から発することが多いそうだけど、劣等感という感覚が僕にはそれほど多くない。
自分大好きの困った性格ではあるけれど、劣等感の裏返しの優等感があるかといえば、それも希薄な感じがする。
劣等感も優等感も、自分と他者を比べて初めて起きる感情だろうから、基本的に他の人にさしたる興味も関心もなければ、劣等感など湧き起こる余地もない。

唯一絶対の正義を信じている人には申し訳ないけれど、正義なんて100万通りもあるんじゃないかと思うし、人の数だけ正義があるとしてもさして驚かない。そりゃ僕と貴方が違うのなら、正義も悪も違うよね、と思うだけだ。
重要なのはその差異や距離感がどれだけあるのかを把握することと、僕はずっと思ってきた。どちらかに軍配をあげることとは違う。
その副産物として他者を認めることに繋がるなら、実に結構なことではないか。
それもこれも他人に興味がないところから発しているのだから、出発点が大きく間違ってる気もするけれど、互いが正義を振りかざして醜く争うよりはマシだ。

世の中に蔓延する非難の応酬や、炎上、叩きといったものも正義感のいびつな現れ方と分析されているようだけれど、突き詰めれば他の人に過剰な関心を持ちすぎるがゆえ、さらに詰めれば不要な劣等感や、事実誤認の優等感が根っ子にあるようにも感じる。
論理と事実に基づけば、感情を廃した議論に発展するのかもしれないが、感情を浅薄な知識でデコレーションしただけの劣化ウラン弾みたいな攻撃は醜悪に過ぎる。

僕みたいにギリギリのところで社会から放逐されずに生きている変わり者は、きっと平面的なヒエラルキーの一番下にいるんだろう。
おかげでささやかな比較意識を持った人にとっては「あいつが大丈夫なら、俺はもっと大丈夫だ」とか、「あいつより下に行ったらアウトだから頑張らねば」と、目に見えるボーダーラインになってる気がする。
何であっても人の役に立つのは良いことだ。
会いに行けるアイドルがもてはやされるなら、可視化できるボーダーラインも同じ程度に扱われても良いと思うのだけど、そんな気配はない。
それも含めて視野の外だから構わないのだが(でも少しは僻んでるんですよ)。

そもそもヒエラルキーを表す三角形や三角錐ほどあてにならないものはない。ちょっとひっくり返せば、頂点などまったく別のところに取って代わる。
世間一般が特定の視座から見ているからヒエラルキーが成立しているだけのことで、モノの見方は色々、頂点に属していると思っていたら、実は最下層だったなんてこともあるのだ。

劣等感など抱え込んでるより、好き嫌いだけで生きてる方が間違いなく気楽だ。好き嫌いは誰にも侵せない唯一絶対の判断基準だし。
あとは正義を振りかざすのと同じように、好き嫌いを振りかざさないように気をつけるだけですかね。

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