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雨、鉄を鳴らす 2

———————だから、


 その日が来ると決まって風呂を隅々まで掃除した。裸になって浴槽の中やタイルの脇にいつも生きているカビをごしごしとこすって落とした。かび臭さと自身から臭うあの独特な女臭とが脳内に充満する。私はこの、体内から無造作に流れ出る赤が憎い。風呂の掃除が終わると隅々まで磨いた清潔なタイルの上で、清潔な石けんで泡立った白いスポンジを使い、身体をこすった。誤って赤く垂れ流されたままの陰部を拭ってしまった瞬間に染まる赤に驚き、今度はスポンジについた赤を必死に洗い落とす。白かったはずのスポンジが突如として汚れたもののように思えてくる。その無情さ、憎々しさ、女である事の強調されたあの赤。

「おはようございます」
枕元から聞こえる機械的な声と共に、容赦なく部屋の灯がつく。一方から聞こえる微かな寝息と、もう一方で数分前からはじまった抽斗の開閉音によって、強制的に朝へと誘われる。起きなければならない。ここにいる数ヶ月の間は、欠かすことなく、ほぼ一定の時刻に熱を計り、幾粒もの薬を機械的に口へと運んでいる。カーテンによって四つに区分けされただけの部屋には私と、もう一人の同居人がいて、残り二つの空間には入れ替わり立ち代わり別の誰かが横たわっていた。

私は放たれることのない大きなガラス窓のそばに陣取っている。若い研修医は、他愛もない話を窓の桟に腰を当てて聞いた。よく笑い、頷く顔に偽りを感じる事はない。私は彼に、薬でハイになった芸術家が描く素晴らしい絵画や物語は真に彼等自身のものであるのか、といった無意味な質問を繰り返しした。彼の答えは特別ウィットに富んだものではなかったけれど、明快で知的探究心をくすぐるものだった。彼はその場を楽しみ、そして一人の患者との迷走した思考を、ただ観測していたにすぎない。ポケットにはいつもプライベート用のスマートフォンを忍ばせており、消灯近くになれば胸の大きな振動を介して見知らぬ男の顔へと変わった。
「すぐにいく、うん、あと五分くらいかな」
通話の内容によって、彼の滞在時間は決まった。私は、彼の世界に入る事ができなかった。振動の波が寄せる度、それまで話ていた事柄や、彼の表情の一つ一つが一斉にこの場所から引いていった。

室の灯りが消される。隣のカーテンからチカチカともれている電光。そのうちに、懐かしいような匂いがする。よっちゃんイカだ。五つめの梱包を開ける時に、少し気をつかって開けているのがわかった。酸味のあるイカの匂いとチカチカにつつまれて、無理やりに、微睡んでいく。さっきまで話をしていたあの人を辿る。私の身体にはある特徴があった。目立つようなものではなかったが、苦痛を感じることもしばしばあった。夢の中の彼はその身体を愛した。何故愛せるのだろう。私は、私を愛せる彼に心底あきれていた。触れられる感覚は極めて曖昧だけれど、夢の中では切実に愛していると伝えられた気がしていた。下腹部の痛みを感じて目覚めると、激しい陽光が目を絞らせた。薄く、ゆっくりと、目を、開ける。機械音が鳴って、抽斗の開閉と誰かの放屁の音とが入り混じる。そのような混沌とした室に戻された時に限って、あの場面を思い出す。

あの時に見た、あの犬。

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