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雨、鉄を鳴らす 3

 それは夏の蒸し暑い夜で、私は自転車を押しながら母と久しぶりに外出をした帰りだった。青い点滅が始まって、歩を止めた。自転車の籠には袋から突き出たネギが萎びている。特売で六十八円のネギ二本は同じく安売りの生鮮食品や缶詰と一緒くたになって、ギッチリと詰められた袋の中からやっとのことで顔を出しているようだった。誰かが私の背後から肩をかすめ、前を遮るようにして立つ。白杖をついた男性で、黒い犬を連れていた。犬は力強く歩みを進め、男性も迷わずそれに続いた。夕立が残した水面に、赤が反射する。喉から絞りでた声がしゃがれた音を奏で、空に消えた。私は強く自転車のグリップを握り、母を見てその視線の先を追った。違和を感じ取ったのだろうか、男が立ち止まり、犬がこちらをゆっくりと振り返る。私と母が思わず飲み込んだ互いの唾の流れが、夜の湿度と共に伝わってきた。黒の犬の目の奥には、犬特有の生き生きとした、人間に対して向けられる独特の好意が感じられなかった。

お前は何を、俺の、俺の、この俺の、俺の使命の何に、何に文句をつけている、何に文句をつけている。

じっとりとした、そういうじっとりとした、じっとりとした、ぬめりとした目でこちらを見据えて、それから黒の犬とそれに連れられた男は赤を渡っていった。次の瞬間、黒の犬の真横から大きな光が彼等を乗り越えていった。それは彼等をさらって、後には赤く染まった白線に、いつのまにか変わった青い点滅が映っていた。私たちはしばらくその場に立ち尽くして、不意に母が何かに急かされるように歩きだした。顔には妙に明るい点滅が反射している。青・・・青・・「おかあさん」青・・青・「おかあさん」青・「おかあさん」青・青・青青青青青青青———

 一週間前に廊下側に入った佐伯さんの元には、二、三日前からソーシャルワーカーが通っていた。佐伯さんは重い糖尿を患っているらしい。まともに治療をしてこなかったため、数年前に右足の指をなくした。さらに、どちらが先かはわからないが別の病気も併発していて、手の皮膚はカラスの爪のように硬く、浅黒かった。話の流れから下町の昔ながらの平家に一人で住んでいることがわかった。ソーシャルワーカーは繰り返し食事の必要性を説いて、朝・昼・晩の三食、バランスの整った食事をしなければならないと念を押した。「この手足では食事は作れない、買い物もしんどい」と訴える佐伯さんに「配達食もある」と強く勧めた。佐伯さんは調べてみるとだけ答え、それから更に三日が過ぎた。いつものようにソーシャルワーカーが訪ねてきて、再び食事について説く。今日の佐伯さんは朝から機嫌が悪い。カーテンを閉め切り、熱を測ることも拒否していた。本日の御加減とこれからの食事療法について意見を問われた佐伯さんは、「配達食を頼む余裕がうちにはない」と答えた。さらに、備蓄しておく冷蔵庫もなければ、レンジもない。ソーシャルワーカーは二言、三言、言葉をかけてその場を後にした。

カーテン越しに聞こえる大きな波は、時折り砂をさらっていった。おはようございますと同じ声色で室の灯りが消される。いつもより静かな夜だ。よっちゃんイカの匂いも、チカチカとした電光もなく、窓外の塞がれた井戸にいるカエルが、幾世紀かぶりに歌声を響かせていた。
誰かの気配がして、目蓋を開ける。それは私の意思ではない。神殿のベールのように光がゆらゆらと揺れている。視界が心地よかった。仄暗い空間の一角が淡いオレンジ色に染まる。どこからか入り込んだ風がカーテンを揺らして、灯りの奥に人影を落とした。

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