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【甲】僕のなかの壊れていない部分/白石一文

長かったような短かったような。半分くらいを夜中に一気読みしたこともあって、釈然としない奇妙な読後感が残った。

昔の男が住む京都で、美しい恋人はどんな反応をするのだろうか。悪意のサプライズ旅行を企画した29歳出版社勤務の「僕」は、関係を持つ三人の女性の誰とも深く繋がろうとはしない。理屈っぽく嫌味な言動、驚異の記憶力の奥にあるのは、絶望か渇望か。切実な言葉たちが読者の胸を貫いてロングセラーとなった傑作。(裏表紙あらすじより)

このあらすじは言い得て妙で、なんにも本筋から逸れたことは言っていないし、読んでから見ると「絶望か渇望か」なんて言い回しはかなり的を得ている気もする。
ただ、初めて見る人にとっては「美しい恋人」「悪意のサプライズ旅行」「驚異の記憶力」とか言われるとそっちのほうが気になって「僕」と三人の女性が起こすドラマチックな展開が待ち受けているようにも感じられる。なんか主語をでかくしてしまったが私の場合はそうだった。
そういえばこの本は前回の課題図書を探している時に見かけていたが、そんなふうに本の内容を想像していたので、なんだか前々回の「月の満ち欠け」と被るなと思って選ばなかったんだった。

実際のところはドラマチックな展開、と言ってもいいくらいの、私の日常では決して登場しなそうな出来事がわりと常に起きているが、別にそれらを山場にするつもりはない、という感じ。「僕」の内省・思想の描写、他作家の引用に大部分が割かれているので読んでいる時の感触はエッセイとかに近い。
物語というのは往々にして起承転結があり、なにかしらのひと悶着を経て成長もしくは変化を遂げるのが主人公というものだ(中学の時国語の授業で習った)。しかしこの本の主人公「僕」の変化は微々たるもので、いやそれすらも私が彼は変わったと思いたいだけで、結局のところ何一つ変わってはないような気もしてくる。そういう意味でもこの本は物語っぽくないのだと思う。


巻末に付された解説にて、

『僕のなかの壊れていない部分』。それを探したくてページをめくる手が止まらないのだ。

と書かれていた。確かにそうだった。でも正直、「僕のなかの壊れていない部分」ってなんだったのか、しばらく考えたがよくわかっていない。枝里子が気持ちの優しいあなた、と表現したなにかかもしれないし、他人のために自分のすべてを捨てるような愛し方はできないと諦めつつ枝里子を振り切れないところかもしれないし、そもそもどこも壊れてなんかないのかもしれなかった。

そんなあやふやな状態なので、深めの読解はいずれ再読するだろう私に任せるとして、とりあえず疑問に思ったり感銘を受けたりして印象の強かった箇所を二つくらい取り上げておく。

日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有難い。
活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくことだと納得すれば、心やすらぐ。

これは或る有徳の女性仏教者の随想集から引用されたものだったが、シンプルにかなり納得して心が軽くなった。たぶん今を一生懸命生きる!!人生謳歌!!みたいなのが人生として正解なんだと思いつつ絶対そうはなれなそうな自分を卑下する気持ちが和らいだのだと思う。死を見つめることで活気が持てるというのは不思議だな。

愛するということは自分のすべてを滅ぼして、ただ相手のためだけに、ただ相手の中にだけ生きようとすることだ。だけど、そんなことは誰にもできやしない。

作中何度か出てくるこの考え方だが、実は私もこれと同じように、自分を捨て置いて相手のために尽くすことを、お互いできればそれがいちばん幸せだとも、でもそれが不可能だろうとも思っている。そんな重くも斜に構えた状態でまともに恋愛できるわけないなと思っていたが、この作品を読んでやっぱりそうだなと痛感した。読後、いまだに「愛」をだいぶ見失っているが、そういえば「僕」と枝里子の間にあったのは「愛」っぽかったな~と今思えてきたのでそれを忘れずにいたい。

自分の話ばかりしてしまったが、逆に自分を浮かび上がらせる一冊ともいえる。さほど読みやすさはないし人に薦めたいかといわれると微妙なとこもあるが、いつ読んでもきっと今読めてよかったなと思う気がするので、いろんな人にいろんなタイミングで読まれてほしい。

まあ私がそんなこと言うまでもなく読まれてるか。

2020/01


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