【乙】僕のなかの壊れていない部分/白石一文

この物語を自分からは程遠い高慢な男の話、という感想を持てる人は、ある意味とても健康で幸せな人だろうと思う

という一文が窪美澄氏による解説の中にある。
なんだかんだ、私はこういうざらついた、”他人には理解しがたいもの”に対するうっすらとした憧れがあるだけの健康で幸せな、「普通の人間」だ。
主人公である「僕」の考え方に共感をすることは非常に難しく、男性が主人公の本だからだろうか、私よりはるかに賢い人間が主人公だからだろうか、と理由を連ねてはみたものの結局はそういうことなんだろう。
「僕」の世の中に対して斜に構えたような姿勢や、本文中ことごとく語られる彼の死生観や女性観については、かなり時間をかけて読んだし、そのうえで理屈が通っているとは感じたものの、同時に偏りすぎているとも感じた。

主人公の松原の身の回りには多くの女性がいる。一人はモデルとして活動する枝里子、松原と恋人のような関係だ。彼女は結婚を考えている。もう一人はシングルマザーで飲食店を営業する朋美、こちらも松原と恋人のような関係で、パクという実夫との関係性を中途半端にしたまま松原と付き合いを続けている。他にも、家庭環境に恵まれなかった女子大生ほのかを自宅に出入りさせて面倒を見たり、夫を持ちながらも金銭で松原とつながり続ける大西夫人との関係も続けている。
松原は東大出身の編集者、本人がどう思っているにしろ、はたから見ると明らかな「成功者」であり、枝里子のような才色兼備の女性が向こうからアプローチをかけてくるところから察するに、きっと人から羨ましがられることの方が多い容姿しているのだろう。彼と同じような経歴を持つ人間が必ずしも彼のような思考を持つとは思わないが、少なくとも私と一番遠いといっても過言ではない人間が同じような考え方を持っているわけがなかった。かといって、その身の回りの女性たちにも私自身と似た考えを持った人間は見受けられず、強いて言うなら、本書の中で一番「平凡な人間」として描かれている、朋美と中途半端な関係の夫「パク」と自分の考えが近いように感じた。
パクは松原と対面した際、偶然知り合っただけの人に対して体の関係を持ったり、気まぐれに金を渡したり、世話を焼いたりする松原の行為は「相手の気持ちを弄んでいる」と糾弾した。(残念ながら)「まったくだ」と私も感じた。だってそうだろう。松原は何人もの女性と並行して付き合いを続け、(女性側の勝手ではあるものの)彼に対して特別な感情を抱いてしまう女性に対しては独自の持論を振りかざして相手にしない。
パクはさらに「きみはきみの膨張したくだらない自我に何の罪もない女と子供を巻き込んでいる」と訴える。
しかし、そんなパクも松原からしてみると「その辺によくいる勘違い野郎の一人でしかない」らしい。だったら私も同じだ。

さて、この本の題名は「僕のなかの壊れていない部分」である。「壊れていない部分」とわざわざいうくらいだから、逆に主人公の「僕」は数々の要因により壊れてしまった部分を抱えているということだ。
彼の幼いころからの家庭環境(彼の母親は、彼とその妹が幼いころから家をよく空け、ホステスとして出勤するか男の家に遊びに行くような人間だった)が彼の偏った女性観を作り上げたこと、すなわち彼の「壊れてしまった部分」との関連は想像に難くない。
さらに、彼が、子供を産むという行為を「他人の死を生み出す行為」ととらえて一括りに女性の愚かしさを歯がゆく思っている部分からは、むしろ新たな切り口の考え方を得ることができて驚いたが、共感には至らなかった。もっとも、彼をそう言った考え方に至らしめているのは、彼の身の回りの多くを構成するそういう(子供を作ることや、既にいる自分の子供に対する考え方が一般的に”軽い”といえる)面を持った女性たちだろう。主人公は多分潜在的にすべての女性を見下しているが、一方できっと彼は見下しているはずの女性たちからも少しずつ影響を受け、新たな「壊れている部分」を作り出してしまっているように見えた。

死生観の部分に関しては、私自身が彼ほどにはっきりとした持論を持ち合わせていないこともあり、偏った考え方に批判的になることもなく、どの考え方も新たな切り口を持っていて新鮮に感じ取ることができた。
全体的には共感こそできなかったものの、冒頭に記したように私はごく平凡な人間であり、そのうえできっと彼のように異端な、「壊れた」価値観に対するうっすらとした憧れがあるのだろう。自分が勝手に女として愚か者のレッテルを張られたり、勘違い野郎と見下されている可能性を含め、そんな脳内を覗き見るのは楽しい作業ではあったと思う。

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