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転売ヤーはなぜムカつくのか?

「転売ヤーとはなにか?」について、特にその存在にムカついている人にとって、今さら説明の必要はないと思います。

ところが一方で、「なぜ転売ヤーはムカつくのか?」という理由について、私自身は何かモヤモヤしたものがあり、明確な答えを出せないでいたので、これついてあらためて考えてみたのです。

まず転売ヤーに対してムカついてるのはどんな人かといえば、その転売されている品物が「本当に好きな人」であり、端的に「趣味人」と表現していいかと思います。

私は趣味人としてはカメラが大好きで、特に歴史的意義のある中古カメラやレンズに造詣が深いので、その立場で考察してみようと思います。

さて、そのように趣味人の立場で転売ヤーとは何か?を考えると、自分たちとは「真逆の人種」であることが分かります。

つまり転売ヤーは、自分が好きでもなく、興味もないような品物を「他人が欲しがるから」という理由で買い占め、その本当の価値を理解しないまま、いたずらに値段をつり上げて転売しようとし、だから腹が立つわけです。

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ところが改めて考えてみると、昔からある街の中古カメラ店も、カメラやレンズを安く仕入れて、金額を上乗せして販売しているという点で、転売ヤーと変わらないのです。

しかも中古カメラ店の店員さんが必ずしもカメラ大好きのカメラマニアだとは限らず、仕事と割り切っている人も少なからずおられるはずです。

そもそも店員があまりにカメラが好きだと、同じくカメラ好きのお客さんと長話に興じてしまったりして、商売の邪魔になりかねません。

ですから某大手中古カメラ店は、アルバイト募集に「未経験者大歓迎」「専門知識はいりません」などと謳い、マニアやオタクを敢えて採らないようにしてるのです(何を隠そう私自身がその昔、面接で落とされたのです、笑)。

ともかく以上のように考えると、「転売ヤー」と「中古カメラ店」との違いが判然としなくなってきますが、しかしわれわれ趣味人の心情としては、転売ヤーにムカついても中古カメラ店にそのような負の感情を持つことはありません。

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このことは感覚では理解できるものの、理屈としてちゃんと説明できないのでモヤモヤしてたのですが、一冊の本からその謎が一気に解けたのです。

それが橘玲『無理ゲー社会』(小学館新書)で、「才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア」という副題が付いています。

「無理ゲー」とは「設定に無理があって攻略不可能なゲーム」を指すネットスラングですが、今の時代は何ら有益な才能を持たない人間にとって、社会そのものが「無理ゲー」のように生きづらいことを、赤裸々に告発した本です。

そしてこの本の冒頭P.35に非常に興味深い図が出てくるのですが、それが【わたしたちの「つながり」世界】と題された3つの項目「愛情空間」「友情空間」「貨幣空間」のベン図です。

そしてそれぞれの要素は、

愛情空間は親子や配偶者、パートナー(恋人)との親密な関係、友情空間は「親友」を核として最大150人くらいの「知り合い」の世界、貨幣空間はその外側に広がる、金銭のやりとりだけを介してつながる茫漠とした世界だ。

(P.34より引用)

と説明されていて、これによるとカメラマニアなど趣味人同士の人間関係は「友情空間」に属します。

カメラの分野に限らず、コアなオタクやマニアほど家族をはじめとする「愛情空間」の人間関係ではその趣味が理解されず、なおさら趣味人同士による「友情空間」の絆が深まり、ディープな内容の交流になるのです。

一方、中古カメラ店の存在は明らかに「貨幣空間」に属します。

ですからわれわれ趣味人と中古カメラ店とは、ドライで割り切った関係でいられるのです。

もちろん中古カメラ店の店主は、カメラ好きが多いのも確かで、マニアックな情報を日々ブログで発信する人気ショップもありますし、その意味で「友情空間」と「貨幣空間」が重なるエリアだともいえます。

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さて、問題の「転売ヤー」ですが、実のところ「貨幣空間」に属しているとは言い切れないものがあり、そこがモヤモヤの原因であるように思われるのです。

さらに転売ヤーの存在は、われわれ趣味人の「友情空間」に土足で踏み込んでくるような気がして、それが不愉快に思えてしまうのです。

これは難しい問題ですが、理由の1つとして、中古カメラ店に属していないインディペンデントの転売ヤーは、「できるだけ値段をつり上げてもうけてやろう」という意識がむき出しな点があります。

もちろん、中古カメラ店だって営利目的には違いありませんが、それがむき出しになっていないのは、どの分野のお店でもそうですがまず「お客様のため」という大義名分があるからです。

中古カメラ店は普通、お客さんからカメラを仕入れるほかに、独自の入手経路を持ってます。

その詳細を私は知らないのですが、いずれにしろ中古カメラ店は、お客のために適切な商品を、適切な価格で取りそろえてくれているのです。

もちろん今の時代は、ヤフオクなどを介してマニア間で直接売買することもできますが、専門店の視野揃えは個人売買の規模を遙かに超えているし、売買の場としての利便性は高く、だからみんなの役に立っており、お客さんに支持されているのです。

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一方で転売ヤーはどうかといえば、ヤフオクや中古カメラ店で安く売られているカメラ、あるいはレアもののレンズなどを買い占め、高値で転売する行為そのものは、実のところ「誰の役にも立っていない」のです。

それどころか、個人売買の邪魔をし、マーケットを攪乱するという点で害悪でしかないのです。

それに加えて趣味の世界に、「好きでもなく興味もない人」が金儲けのためだけに参入してくること自体、「友情空間」を土足で踏みにじることになり、どうしても怒りや憎しみがわいてきてしまうのです。

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しかしどんな理由であれ、他人に対し怒りや憎しみを持つことは、精神衛生上あまりよろしくありません。

ではわれわれ趣味人としては、転売ヤーとどのような態度で付き合うべきなのか?

つまり転売ヤーそのものが法律で取り締まれない以上、その存在は不治のがん細胞のようなもので、われわれは上手くお付き合いしていかなければならないのです。

そしてそのことのヒントについても、前述の『無理ゲー社会』に記されているのです。

この本には「才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア」という副題が付いていますが。

そしてこの場合の才能とは何も大げさなことではなく、カメラでも何でも「好きなことがある」という才能がありさえすれば、人は充分にハッピーな人生を送れるのです。

ところが一方で、世の中には趣味もなく、何にも興味を持てない人たちが、一定数いるのも事実なのです。

趣味がなければ余計なお金を使わずに済むし、良いことのようにも思えます。

問題はそのような人たちが、生きる意味や自分の存在価値を見いだせずに苦しみ、場合によっては自暴自棄の犯罪にまで陥る事例がある点です。

また趣味がなくとも仕事にやりがいや生きがいを感じる事ができれば、日々充実して過ごせますが、仕事にしろ趣味にしろ、好きなものが何も見出せないのであれば、メンタルが病むのも当たり前なのです。

というのも『無理ゲー社会』によると、現代は世の中全体が豊かになった結果、誰もが「自分らしく」生きられる、理想の「リベラル社会」が実現したのです。

これに対してたとえば日本の江戸時代は武士の子は武士に、百姓の子は百姓に、と言った具合に身分が固定され「自分らしく生きる」という選択肢は皆無だったのです。

このような事情は近代以前のヨーロッパも同じで、それを思うとずいぶん生きやすい世の中になったといえるのです。

ところが人間は複雑で面倒な生き物で、「自分らしく生きていい」と言われても、何が「自分らしい」のかが分からず苦しむ人がどうしても一定数含まれてしまい、そのような人にとってリベラル社会はまさに「無理ゲー」の生き地獄なのです。

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あらためて話を整理すると、何かを好きになってそれを趣味にできること自体がひとつの「才能」だと言えるのです。

なぜならその反対に、何にも好きになれずに興味も持てない人たちが、実際に相当数いるからです。

カメラを例にとってみても、私からするとそれ自体が技術者たちの知恵と工夫の塊で、その魅力は尽きることはありません。

しかし同じカメラを扱いながら、なんの魅力も興味も感じられない人というのは、やはりその面での「才能がない人」だといえるのです。

つまり転売ヤーと言われる人種は、せっかくのカメラも「単なる金ヅル」としか見られないような、その意味ではかわいそうな人々なのです。

いや何も、趣味が持てる人間のほうがエライなどと言うつもりはないですが、事実として無趣味な人は現代のリベラル社会では「負け組」になってしまい、そのことは『無理ゲー社会』の中で著者の橘玲さんも明確に述べられているのです。

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実は私は子供の頃は昆虫やプラモデルが趣味だったり、中学の頃にカメラの魅力にハマり、アートが好きでアーティストになったような人間ですから、「無趣味な人」の気持ちは正直わからないのです。

しかしどんな分野にせよ、趣味があると人生が豊かになるのは確実で、例えば私の中古カメラ好きの仲間は定年退職したご高齢の方も少なくないですが、みな年齢を感じさせないほどお元気で、楽しそうにカメラやレンズのマニアックな話に花を咲かせるのです。

また10代、20代の若者でも、昭和時代のフィルムカメラに興味を持つ人も増えてきて、みなさん好奇心が旺盛で知識が豊富ですから、Twitterを見てると誰が若者か年寄りか分からず、そうした世代を超えた交流も実に健全だと思うのです。

そうした人間関係の中で「転売ヤー」とどう付き合うのかは、ひとまず「かわいそうな人」と思うのが、気が楽で良いのでははないかと思うのです。

実はこの考えは橋本治さんの『上司は思い付きでものをいう』(集英社文庫)と言う本に、単なる思い付きで無理難題を押しつけてくる上司に対して、怒ったり憎んだりしても仕方がないので「かわいそうな人」として哀れむぐらいでちょうど良い、と述べられており、その応用なのです。

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結局のところ現代は「誰もが自分らしく生きられる」リベラル社会ですから、他人にどう思われようとも転売ヤーとして生きることが「自分らしい」と感じるのならそれも自由なのです。

そして趣味人の立場からそれを「かわいそうな人」だと思うのも自由であり、そのように様々な人々が共存してゆくのが平和で公正でリベラルな社会だといえるのです。