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常識は正しい。

私は写真とかアートなどについて、ともすれば「非常識」なことをいろいろと書いておりますが、一方で「常識」の正しさや重要性は十分に理解しているつもりなのです。

デカルトの有名な言葉「我思うゆえに我あり」が記された『方法序説』という本には、その前段階に「常識」というものがいかに重要なのかについて述べられた箇所があります。

まずデカルトは、何か判断に迷った時、自分が属する世間一般で通用している「常識」に従えば、取り敢えず間違えることはない、と述べています。

「常識」とは一つの指針で、それは歴史を経てだんだんに定まってきた指針だからこそ、信頼性があるのです。

デカルトは「森の中で迷った旅人」を例にして述べていますが、そんなとき、ただ闇雲に歩き回っていたのでは森から出られず遭難してしまいます。

ですから、まず必要なのは「指針」としてある一つの方向を決め、次にそれに向かってまっすぐ進むことで、そうすればどれだけ時間がかかろうともやがては森から抜けられるはずなのです。

これを実生活に置き換えて考えると、生きていく上で必要な「指針」となるのが世間一般でまかり通っている「常識」であり、何か判断に迷ったらただ真っ直ぐ「常識」に従って進めば良いのです。

実際、デカルトの「我思うゆえに我あり」という見解は、「存在とは何か?」という哲学的問題を「常識」に沿って延々と考え抜いて到達したものなのです。

デカルトが到達した「あらゆる物事の存在は疑えるけど、何かを思っている自分自身の存在は確実で疑うことは出来ない」という結論は、「常識」に照らしても十分に納得できるものがあり、だから現代においてもなお有名な言葉として残っているのです。

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では常識を疑ったり、常識を否定したり、常識をひっくり返すことは、愚かで無意味なことなのでしょうか?

一般に、それこそ常識的に、「常識の否定」は創造力を産み出すことが知られており、常識を否定することで世の中が進歩してきたとされています。

例えばヨーロッパの封建制の常識が否定されてフランス革命が起き、中世の迷信的な常識が否定されて産業革命が起き、江戸時代の常識が否定されて明治維新になり、世の中は近代化され現代へと発展してきたのです。

しかしここで重要なことは、前時代的な常識がいかに否定されようとも、その常識の全てが否定されたわけではなく、否定されずに継続されている常識も同時に存在するという事実です。

例えば縄文時代の食文化を研究すると、それは現代日本人の食生活と驚くほど共通性があり、日本では数万年に渡ってそのような「常識」が変わらずに受け継がれてきたのです。

いやそれ以前に、困ってる人を助けたり、人から助けられたらお礼を言ったり、誰も助けない独りよがりな人はみんなから嫌われたり、そういった「常識」は、原始時代の昔から現代にまで受け継がれた「常識」だと考えられるのです。

あるいは別の見方をすると、スペインのオルテガという哲学者は『大衆の反逆』という著作の中で、あらゆる「反〇〇」という態度は「〇〇」の存在を前提としているので本質的に〇〇を否定できない、というように述べています。

例えば「反芸術」という概念は「芸術」の存在を前提としているから本質的に「芸術」を否定できないし、実際にダダイズムや未来派など「反芸術」的な作品も「芸術」のさまざまなバリエーションの一つとして扱われているのです。

「反芸術」は「芸術」の存在なくして成立しませんが、「芸術」は「反芸術」があってもなくても「芸術」として存在しているのです。

同じように「非常識」は「常識」の存在なくして成立しませんが、「常識」は「非常識」があってもなくても「常識」として存在し続けているのです。

そのようなわけで私も【写真史と美術史を分けないで考える】という「非常識」な見解を述べてはおりますが、同時に「写真史と美術史は別物である」と言う「常識」も、自分の見解の「前提」として十分に認めているつもりなのです。