阪急を使うのに抵抗がある話

 この数年、死を扱うコンテンツを作ってきて、
宝塚歌劇団の一連の報道を横目で見つつ、
他人が無責任なことも書く訳にもいかない(と思っていた)のですが避けて通るのも少し違うかなというのもあるので思っていることを書いてみようと思います。

まず、僕個人は一生宝塚を観劇する事はもう無いでしょう。
例の事件以前は興味があったし子供の頃から1度でいいから見てみたい、とおもっていました。
(手塚治虫を子供の頃から好きだった関係で彼が好きだっものに触れてみたいと思ったことが由来でもあります)
しかしながら、一連の報道、関係者のインタビュー、宝塚歌劇団の対応を外側から見ていると、
どうしてもその価値に疑問を感じざるを得なくなってきました。

表現するとはなにか、という本質からズレすぎているのじゃないか、と思うのです。

人が一人死んでまでやる演劇ってなんでしょうか。

IPとしての演劇、需要があるから夢を売る、という事でしょうか
この期に及んでそれを惜しみ涙を流すファンも、
上演を喜ぶ笑顔のファンも、僕には薄っぺらく感じます。

いじめをした演者を守り、演者ではなく監督出来なかった組織に責任がある、という宝塚の結論も疑問を感じずにはいられません。
双方に責任はあったはずです。
なぜなら演者は社会人であり大人だからです。
会社も同様に。
表現を扱う特殊な環境ということは言い訳になるはずがありません。
なら何人でも死んでもいい、と言うことになる。
そんな事が良い舞台に必要なら表現なんてこの世界から消えればいい。

人間が死ぬまで追い詰められるような環境を黙認した事も、
もし最悪な事態になったとしてもいいとパワハラを行ってきた事も、令和の時代の組織だとは到底思えません。
死を想定できなかったとしたら、
そんな幼稚な表現者が演じる演劇にどんな価値があるんでしょうか。

宝塚という組織への不信感と諦め、
ああ、あの低俗な、という印象は僕の中で無くなることはないでしょう。
技術がどう、は、どうでもいいのです

土台があるから技術が賞賛されるんです
そういう風に世の中はなってるんです
ブランドがあるから価値がつくのです
何を言うかではなく、
誰が言うかです。

そのブランドを汚したのは、
いじめ、パワハラを行った当人たち、それを黙認した会社、そしてそれを甘い目で擁護するファンである、と思っています。

母体である阪急電鉄を僕が使うことは宝塚が解体される日まで無いでしょう。
そんな日が来ることは無いのかも知れませんが。

人に当たり前にある死や美しさを、 詩や文で紡いでいます。 サポートをしていただければ製作の糧になります。 是非よろしくお願いいたしますm(__)m