DAY197 宇宙の法に則って生きている人に説教垂れまくっていたあの頃のわたし。

相方さんとの関係性で、わたしは自分のほうがずっと優れていると思っていた。
だってわたしは、スピリチュアルについて学び、ほんとうの愛とは何かを探求していたのだから。

それに比べて彼は、いつも現実主義者で、わたしの言葉には大して耳を貸さなかった。頑固なヤツだな、と思っていた。

でも実際は、反対だった。

眠りと目醒め、という言葉で例えられることが多いけれど、それで言うなら眠っているのはわたしのほうだったのだ。
眠っているわたしが、目醒めている人に向かって、目醒めろと言っていた。寝言だ。相手にされる筈もない。

その事実について明確に気づいたのは、昨日のアミの件だった。これまでも仮説として持っていたけれど、アミの朗読を聴いて確信してしまったのだ。

宇宙の法に則って生きている人間に対して、もっとこんなふうに生きれば、本当の自由になれるんだよ、って言ってたんだな。そしてなびかないからって、コントロールしようとしたりもして!

宇宙の法に則って生きている人を、愛がないな、ハートが開いてないんだよ、なんて言っていた。それは、わたしの姿を映し出す鏡に過ぎなかった。
鏡に向かって、あなたが開けばわたしも開くのよ?さあ開きなさい!と言っていた。無論開くはずもなかった。

愛の言葉を求めた。愛を確認したかった。愛されている証拠が欲しかった。でも手に入るのは、愛されていないということ。
本当は愛されていた。いや、愛そのものだったのだ。証明することなんて不可能で、ただ存在するエネルギーでしかなかった。

わたしは激しく眠りの世界に没入していた。
彼は、わたしが起きるのを待っていた。その中で、何かしら彼にも学ぶことがあったのだと思う。それが何なのかは分からない。
でもわたしが眠りの世界から目を醒まさない限り、このプロセスは進まないのだ、ということを知った。

愛されたいとか、愛し合いたいみたいな感情は、なんだか嵐のようなもので、今はそれが過ぎ去って穏やかな気持ちでいる。
愛されたい、ではなく、愛であるのだ。わたしも、彼も、周りも、すべて。

タラレバで方法論を探すのも、そろそろやめにしよう。どうすれば、何をすればいいのかは、内なる自分がすべて知っている。

愛を基準に、宇宙の法に則って生きてみよう。わたしはただ、わたしであることに集中しよう。愛そのものであること、神そのものであることに。

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