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≪短編小説≫幸せのありか 朱美の場合

酔った主人が戻ったのは日付が変わる頃だった。
仕事がらみの宴席は多いがここまで酔うのは珍しい。

「ここへ来てくれないか?」
酔いでグラグラしながらリビングの定位置に座って私に対して言った。
そこで主人が私に告げたのは、会社を辞めることになったこと。転職のあてはなく無く、これから知り合いなどに頼んでみるということ。暫くは貯金を切り崩して生活をしてほしい。

一方的に告げられた後、どうして辞めるのか?なぜ私に相談してくれなかったの?今朝は何も言っていなかったじゃないの。こんな大事なこと突然決まるわけないでしょ、いつから考えていたの?そのようなことを言ったが、なに一つ彼からは明確な答えは返ってこなかった。
ぐったりとしている主人を目の前に、今朝の平和な様子を思い出していた。

     ********

「あのさ、杏子ちゃんなんだけど、企画から外されたんだ。いまは監査ってとこに飛ばされちゃってさ。会うことがあったら慰めてやってよ。」
「へぇー企画外されたんだ。あの仕事気に入ってたのにね。何かあったの?」
「まぁ杏子ちゃんも長いしね。上が使いづらくなったんじゃないかな。今の部署は居づらいらしくってさ、昼飯は公園で食ってるって噂だ。」
「それは可哀そうね。いいひといないのかしら?そろそろ結婚しなきゃ子どもが産めなくなっちゃう。」
「そうだな、でもあの頑固な性格だから難しいんじゃないか。そういうんだったらお前も心当たりを世話してやれよ。」
「そうね、考えとくわ。」
子どもたちの通学の世話があり、会話はここまでだった。

杏子が左遷された。あのお高くとまった杏子がね。それはお気の毒さま。友達として励ましてあげなくちゃ。きょうは下の子を園に送ったら、ママ友とランチの約束がある。ランチの前に会社近くの公園へ行ってみよう。そうそう、ママ友とのランチの時間を少し遅らせてもらうようメールしなくちゃ。楽しい一日になりそうだわ。ウキウキしてきた。

会社近くの公園で杏子の姿を探すのは容易な事だった。
一人ぽつんとベンチに座り、コンビニ弁当を食べていた。寂し過ぎる光景ね。
一通りのあいさつの後、言ってやった。
「そうそう、人事異動があったんだって?主人から聞いたわ。杏子は企画の仕事を気に入ってたのに残念ね。」
「はじめは私もそう思ったわ。もっともっと手掛けたい企画がいっぱいあったしね。でも住めば都よ。新しい部門でもやりがいはあるの。いわばこの会社を正しく発展させるための後方支援ね。。」
杏子はわざとらしく時計をちらりと見て会話を打ち切ったっけ。

 何が住めば都よ。強がり言って。せっかく慰めてあげようと思ってわざわざ来てあげたのに。
実は高校時代から杏子は私にとって煙たい存在だった。成績が良く美人だ、自分の考えをストレートに言うので冷たい感じがして友人は少なかった。
大学を卒業して働き出した頃、杏子が大企業に就職したことを他の同級生から聞いた。
あの会社は魅力的だ。彼女の同僚と近づきになれたら結婚の可能性もある。杏子のことはいけ好かないけれど、この際連絡を取ってみようと電話をかけたものだった。
 そこからはとんとん拍子で、現在の主人と知り合い結婚にこぎつけられた。今は幸せに暮らせている。苦手な女だったけれどその意味では恩人と言えなくもない。

 ママ友とのランチは楽しく、あっという間に下の子の園のお迎えの時刻になっていた。子どもと一緒に帰宅し、夕食の支度をしていると夫の同僚の妻から電話が入った。
「大丈夫?どうしていらっしゃるかと思って。」いったい何のことかと聞くと
「ご主人が会社で大変なことになっているみたいよ。いま、ウチのから連絡が来たわ。」と。
とりあえず「主人からは何も連絡は無いわ。帰ったら聞いてみる。」やっとの思いで返事をしておいたが、心はひどく波立っていた。
「気を確かにね。」などと優しい言葉を沢山連ねてくれたが、言葉とは裏腹にこちらの動揺するさまを知りたかったのだろうし、電話を切った今頃は嘲笑しているに違いない。
悔しさと情けなさの入り混じった感情が押し寄せた。

 何のことだろう大変なことって。良いことではないニュアンスだけれど想像もつかない。地方へ転勤になるのだろうか?そんなことではわざわざ大変だと電話を入れてこないだろう。
気もそぞろに子どもたちをお風呂に入れ、食事を済ませ、寝かしつけた。
不安はだんだん大きくなっていったが夫は帰ってこなかった。

     ********

 翌朝、子どもたちが出かけた後、夫は起きてきた。同僚の妻から電話があったことを告げ、昨夜の話では何も解からず、いったいどうなっているのかを尋ねた。

協力会社からリベートを取り、それを自分の口座に取り込んでいたのは事実だ。これだってより良い仕事をするためには金が必要だったんだ。リベートなんて誰でもやっていることなのになぜ俺だけがやり玉にあがるのか?きっと俺の成果を恨んだ奴が仕掛けた罠に引っかかってしまったのだ。
お前だって俺のおかげで人並み以上の暮らしが出来ていたはずだ。感謝されこそすれお前に批判されることは無い。
ここまで会社のために頑張ってきたのに、たかがこんなことでコンプラ違反で退職勧告とは冗談じゃない、まったく情けない。
主人の口から出るのは保身を図る言葉ばかりだった。

 自分勝手な言いたい放題の話にひと区切りがついた時、私は静かに口を開いた。
「いくら人のせいにしたって、会社のためだと言ったって、あなたのやったことはルール違反なんでしょ?息子のサッカーであれほどフェアプレイを説いていた人のやることじゃないわ。」
そう告げたとたん、夫が驚いた表情に変わった。そして長い沈黙のあと
「そうだな、これじゃ父親失格だな。」と言って泣き笑いの表情になった。
私は不思議と冷静でいられた。悲しくも腹立たしくもなく、むしろほっとしていた。

 これまでの日々、豊かで何不自由のない暮らしだったが、その実気持ちは満たされていなかった。もっと上へもっと上へと夫婦で必死にあがいていたのだと思う。夫は絶えずストレスを抱えていたし、私もママ友や同僚の家族との付き合いでは気が抜けず、幸せな主婦をいつもいつも演じていた。
夫が会社を去るということは、経済的には随分苦しくなるだろう。家族の暮らしも大きく変わってゆくだろう。しかし変化することで私たち家族は本来の姿に戻ることができるのではないか。一筋の光明が私には見えていた。

「大丈夫、沢山ものを失くすことになるでしょうけれど、もう一度二人でやり直しましょう。」 無防備に泣く夫の肩を抱きながら穏やかに言った。

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