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水うちわの活動と初めての石徹白

カンボジアでの経験から、私は自分の生まれ育った地元・岐阜を見つめ直すことになりました。

IKTTで織物をする女性らが、自分たちの誇りである伝統文化を継承・創造していくことを生活の糧としていて、それがとにかくカッコよかった。

私は先進国で何不自由もなく生活ができる豊かな日本に生まれたけど、自国の文化で自分が誇りを持って語れることって何も知らない・・・ということに気が付かされ、なんだかちょっぴり情けないと感じていたのです。私にも何かそういう「誇り」を持てるものがないだろうか・・・、と。

だから、まずは自分の故郷である岐阜についてもっと知ろう、と考え、大学3年生の後半から岐阜市でまちづくりをしているNPOの東京支部の立ち上げに関わらせてもらいました。

岐阜市で活動をしている同世代のメンバーと、岐阜出身関東在住のメンバーとが力を合わせて様々な動きが出てきました。

私は、最初の就職が都内だったこともあり、東京から岐阜に通いながら、あるいは、東京で岐阜のイベントなどを行いながら、関わりを持っていました。

そんな中、岐阜のメンバーが作っていたフリーペーパーの取材で「岐阜うちわ」を取り上げることがありました。

岐阜市の川湊である河原町(岐阜市湊町周辺)では、昔は上流の美濃から和紙が運ばれ、それが荷上げされて加工する仕事が盛んでした。提灯や和傘、うちわがその代表的なもので、今でも残っています。

岐阜市に唯一のうちわを専業にされている職人さんを取材すると、かつて「水うちわ」という水のように向こう側が透けて見えるうちわがあったけど、平成に入ってから材料が手に入らなくて、作ることができなくなったという話を聞いたのです。

彼の先代が作った水うちわがあまりにも美しくて感激し、こんなに素敵なものが岐阜にあるんだったら、これを復活させたい!という思いのもと、職人さんと水うちわ復活の活動が始まりました。


東京で「水うちわサロン」という水うちわを持って街歩きをするイベントを開催


(この活動については、「水うちわをめぐる旅」(2007 新評論)に具体的に記しています。)

この本を書くことが、私が岐阜にUターンするきっかけになりました

この活動から、私は、長良川の中流域にあたる岐阜市は、長良川の上流域の恵みによって成り立っている ということを初めて知りました。

うちわや提灯、和傘を作るための材料は、すべて上流域から運ばれてくるものでした。それだけではなく、家を建てるための木材も、食する魚だって上流の美しい川で育ったもので、もっと言うと、飲み水は霊峰白山の雪解け水であるし、豊かな土壌も川から運ばれてくるもの。

長良川は、岐阜市に住んでいる者としては、とても身近で美しい流れがあるのが当たり前と思っていました。けれど、そう在り続けられるのは、上流域の人々の暮らしが続いているから、ということを知ったのです。

ここから、長良川の上流にある郡上市に通うことになります。
岐阜市を支えてきた上流域ってどんなところなんだろう。そこに住む人たちはどんな人たちなのだろう。どんな文化があって、どんな生活なんだろう。こうした興味が湧いてきたのです。

まちづくりの仲間たちの一人で活動の中心的人物である蒲勇介くんが、郡上にルーツがあったため、彼の実家の田植えにお邪魔したり、林業のワークショップや田畑を開墾するプログラムに参加するようになりました。

林業の現場に話を聞きに行ったりしました

こうした中で私たちは、山間地域の厳しい現実があることを知り、危機感を抱き始めました。

どこの地方もですが、過疎化が進み、若者はどんどん都市へ出て行って仕事をしている。林業や農業の担い手がいなくて、山や田畑が荒れている。
子供がいなくて学校教育がままならない。地域文化が継承されなくなってきている。

林業の課題を学ぶイベントを開催したこともありました

岐阜市だって地方の町なので、都心への人口流出が問題ですが、郡上はそれ以上に深刻です。郡上おどりが有名で観光客は多く訪れるものの、就職先が限られるということで進学を機に外に出たまま戻ってくることが難しい・・・何人かの地元の方に話を聞いていくと、そんな事実が浮き彫りになってきました。

問題意識を抱えながら、郡上をより良くしようと活動している人たちとの出会いを重ね、仲間と共に「長良川流域持続可能研究会」(通称:じぞけん)という勉強会を始めました。

勉強会には名古屋大学の高野雅夫先生や、岐阜でNPO活動をしている駒宮博男さんなど、大先輩方も迎え、20代〜30代の仲間と仕事の傍ら様々な課題について語り合い、学び合いました。

勉強を重ね、「衣食住」・エネルギー・福祉・教育 はある程度地域の中(ここでは「長良川流域圏」)で完結しないと、人もものもお金も外に出てしまって、地域が疲弊していく・・・という結論に至りました。

「勉強」だけではなく実際に田んぼ作業を経験しました

その頃、仲間はみんな独身で子供もいなかったわけですが、自分が結婚して子供ができたとき、子供たちや、その子供(孫)も安心して暮らしていける地域を作るにはどうしたらいいか・・・ということを真剣に考え始めたのです。

あまりにも大きな話でどこから何をしたらいいかわからない。けれど、何かしたい。そんなメンバーで、「生活に欠かせないけど、なんだかよくわからない”エネルギー”について何かやってみよう」ということになりました。

そして、岐阜は水が豊かなので水力発電の可能性が全国でも2位であることを知り、ダムを作るのではなく環境に負荷をかけない「小水力発電」の可能性を探ろうということになりました。

そこで訪れたのが「石徹白」でした。
2007年8月に、仲間とともに、なんて読むかさえ分からなかった「石徹白」という土地を訪れたのです。

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