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「モラトリアム」としてのプロ野球:日本未公開野球映画を観る(19)

The Quitter(2014)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

コニーアイランドのバッティングセンター

 これもまた「野球後」の映画ということになるが、主人公が野球をやめるところではなく、既に野球をやめて生活しているところから始まる。
 ブルックリンのコニーアイランドで小さなバッティングセンターを経営するジョナサンは、ある日ビーチで地元に帰ってきたかつての恋人ジョージーとその娘に遭う。彼女は嘘の電話番号を教えるほどジョナサンを拒絶するが、彼はやがて7歳の娘ルカが自分の子であることを知る。かつて妊娠がわかったとき、彼は逃げたのだ。
 あらためて父親になろうと決めたジョナサンはジョージーから3週間の時間をもらい、ルカをバレエのレッスンに連れて行ったり自分のバッティングセンターで打たせたりする。この努力に母娘は次第に心を開き、ジョナサンが父親だと告げることに決めるが、その日、彼は深夜までやって来ない。言い寄ってくる隣人の男をジョージーが追い返した後やっと現れて謝るジョナサンに、彼女はやり直す決心をしたように見えた。
 しかし、従業員らとの久々の草野球のグラウンドで、ジョージーはフロリダに戻ることを告げる。ルカは父親と離れるのを嫌がって泣いたと聞き、ジョナサンは赦されたことを知るという結末。

ヨーロッパ映画的な印象と結末

 野球の場面は多くなく、ジョナサンがどういう選手でどこでプレーし、どういう経緯でやめて帰ってきたのかは語られないし、監督でジョナサン役のマシュー・ボニファシオはあまり野球選手らしい風貌でもない。ただ、そうしたことが本作の印象を悪くしているわけではない。セリフが少ない代わりに表情や映像で語らせる作風はヨーロッパ映画のようで、野球がからむ作品には珍しく、新鮮に感じる。
 ただ、最後のジョージーの決断はわかりにくい。娘は父親になついて彼も本気でやり直そうとしている、伯父の営むタイル店での仕事にも熱心に取り組んでいる、一人で育てる大変さも語られていた。なのに、フロリダの学校にはルカをよく知る先生も友達もいる、という理由でそこに戻るというのは説得力を欠き、ただハッピーエンドを避けたようにしか思えないのが残念だ。

「プロ野球選手になること」の日米差

 「野球後」を描く映画がひとつのジャンルを成していることは何度か指摘したが、本作と設定が似た作品もいくつかある。例えばHitting the CycleBrampton's Ownで、共通点は、主人公が故郷を出てプロ入りするとき必ずしも祝福されたり励まされていなかったらしいことと、大成できず戻ってきた主人公と周囲の関係が何かぎくしゃくしていることだ(本作ではジョナサンの父もプロ入りしたときのことを激しくなじっている)。これらを見ると、プロ野球選手になることの意味あいが日本とは少し違うことに気づく。
 日本では、プロ野球選手になるのは長年の努力の結果として成し遂げられることで、それ自体が賞賛される。従って、仮に大成できなくても「元プロ野球選手」というだけで価値が認められるし、ドラフト下位指名でも貰えるかなりの契約金はそれまでの努力への見返りとも言える。
 しかしアメリカでプロ野球選手になるのは、子どものボール遊びを20歳を過ぎても続けるということで、それだけではべつに賞賛などされないし、大成しない限りは数年かせいぜい10年ほど大人になるのを猶予されるに過ぎない。野球をやめて「ふつうの」仕事に就いたりすることを「real worldに戻る」といった言い方をするが、プロ野球はrealではない世界なのだ。
 こうした違いの背景のひとつには、プロ野球の層の厚さ、すなわちプロになれる人数の違いがある。アメリカでは毎年千数百人がドラフトされ、独立リーグやセミプロまで含めればさらに大量の選手が学校を出た後も「とりあえずは」野球を続けられる。誰にでもできることではないが、それでもこうやって野球を続ける若者はさして珍しくない存在で、だから比較的身近なこととして映画に描かれる。もちろん、大半の者は数年で夢破れるし、ドラフトで相当上位で指名されない限り契約金などないも同然で、経済的には全く報われない。
 そうやって「モラトリアム」を続けた元野球選手が夢破れてreal worldに戻るとき、それまで放っておいたり投げ出したことに方をつけたり報いを受けなければならなかったりするわけで、そこを様々に描く作品群が「野球後」の映画なのである。
 日本でこれに近い生き方を挙げるとすれば、音楽を続けてプロをめざすことではないだろうか。続けるだけならハードルはさほど高くないが、それで食べていけるようになったり、ましてメジャーになれる確率はとても小さい。ほとんどの場合いずれケリをつけて「実社会」に戻らなければならないこの「夢追い人」は、身近に一人や二人はいるぐらいの存在になっている。従って日本ではこういうミュージシャン志望の若者が夢を諦める前後を描く映画が増えており、『群青色の、とおり道』(2014)、『モヒカン故郷に帰る』(2015)、『凪の海』(2020)などだが、アメリカの「野球後」映画にあたるものと位置づけてよいだろう。

希望の象徴としての草野球

 本作も含めて「野球後」映画ではたいていの場合、主人公は夢に見切りをつけ、現実と折り合いながらこれからの生き方を見つける。ラストの草野球の場面はその区切りであり、よく見られるシーンではあるが、小さく粗末なグラウンドでもさわやかさと躍動感があり、希望の象徴として相応しい。
 数少ない野球シーンとして他にバッティングセンターがある。バッティングセンター自体にはどちらかといえばうらぶれたイメージがあるのは日米共通だが、そんな場所でマシンが投げるボールでも、芯でとらえればこの上なく爽快で、ルカが初めて打つ場面ではそれがよく伝わる。
 そういえば、このバッティングセンターが円形なのも面白い。中心に何台ものマシンが各方向に向けて設置されてケージは円周上に並んでおり、アメリカでこれが一般的なのかどうかはわからないが、日本にはないのではないだろうか。
 それから舞台はコニーアイランド周辺でビーチや遊園地は少し映るが、ブルックリン・サイクロンズの本拠地MCUパークは出てこない。ショートシーズンA級とはいえ「夢」につながる(かもしれない)美しい球場で、本作のトーンには合わなかったのだろう。

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