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退屈は怖いですか?

私の作文、なんでみんなの前で読ませてくれないんだろう


はっきりと覚えている。
小学5年生の時、冬休みのことを書いた作文だった。

「上手く書けている人に読んでもらいましょう。では○○さん」

旅行したとかこんなイベントに行ったとか大会とかそんな作文を何人かが読んだ。でも待てど暮らせど私の名前は呼ばれず、結局最後の一人が作文を読み上げた。


その子の作文はめちゃくちゃに面白かったのだった。絶望した。


運動神経のいいショートカットの女の子は、被っていた布団を兄に剥がされるとか、バカとかアホとか悪口を言ったとかいう、兄との喧嘩の話を具体的に書いていたのだった。

人の話は基本的に退屈だと頬杖していた私は完全に出遅れていたことを知った。教室のみんながしっかり聴いていた、笑っていた。

私は自分が書いた作文の内容なんて覚えていない。もしかしたら書いた本人も小学生の頃の自分の作文の内容なんて覚えていないかもしれない。

それでも私に多大な影響を与えたのは彼女の一つの作文なのだった。


それから心がけたのは逆張りと具体性だ。

逆張りはなるべく人と同じテーマにしないように選ぶことを指す。みんなが大きいテーマを取り上げそうなら私は小さいテーマにする。逆も同じ。

具体性は臨場感を出すために必要だ。今ここにいるかのように話したい。強調したくなくても背景の説明には時間をある程度かける。”どんな場所でどんな人が”を重んじるようにした。

この2つは絶対だ。なぜなら私は作文をみんなの前で読みたかったから。


それに気づいてからも自分の話や文章から退屈を追い出すのは難しいと日々思っている。

逆張り作戦は全然違う話やんと言われる前にオチまで持っていけそうじゃないと聞いてもらえない。
具体性を持たせよう作戦の背景の話も長過ぎると起承転結の薄い退屈な2時間半の映画みたいになる。

大学の授業ではがっつりと睡眠し、あの上司の話長いですよね(笑)って話しかけられたら同意しちゃうし、しまいには音楽をサブスクで聴く時、イントロ微妙だな〜サビまで飛ばそ みたいなことをしている私は人一倍せっかちで退屈に敏感なのだろう。

退屈恐怖症みたいなものに蝕まれている若者は私以外にも多いのかもしれない。刺激的な世の中であるし、一部のマニアしか見ないフランス映画はデートで観るべきではない。言葉も誤用とカタカナ語には気をつけている。永遠と延々で少しもやもやしながら読む文章は集中できない。そしてカタカナ語の意味を調べる手間こそアホみたいだからだ。


これだけ語っても結局作文を読んだ記憶はない。作文の内容は幾分かましになっていたかもしれない。
だが当時の私はなんだかよくわからない抽象的な文に惹かれていたため、自分のことは自分でもわからない・・・みたいな詩を書いて母親に笑われたことが最悪すぎて現在に至るまで詩が苦手だ。

その時叔母だけはなんかかっこいいねえ!って言ってくれたから叔母のことが大好きで、いまだにプレゼントをよく贈る。なので子どもには優しくしたい。



作文も詩も上手くならなかったけど、こうして言葉を紡いで文を書くことや話すこと自体は苦ではなくなった。食べた料理を記録するために撮った雑な写真のような文章を私は性懲りもなくここに書き留めるのだった。

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