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「劇場版 パンフレット・エヴァーガーデン」

ヴァイオレット・エヴァーガーデン
壁に貼られた一覧表を指し示しつつ、マスクの中で口を動かし、やや慎重ぎみに尋ねた。
「……の、パンフレットは在庫切れのままですか」
まだお若い男性の店員さんは、一瞬の間を置いてから、私の手を追って目を細め、ゆっくりと向き直った。
片足を半歩ほど引いてゆるく膝を曲げ、制服のシャツの裾をつまみ、慇懃に頭を下げる。

「お客さまがお望みなら、何でもお売りします。
ユ〇イテッド・シネマKグッズコーナー担当、
パンフレット・エヴァーガーデンです」


と、落ち着きはらった、しかしプロの矜持がひっそりと滲む声音を発し……ということなど無く、ただ眉を落として答えた。そうですね、と。
「申し訳ありませんが、在庫は切らしてますね」
ここで私はこみあげる激情を抑えきれず、平生は崩すことのない冷静さをかなぐり捨て、

「でも私は知りたいのです!
この映画のあいしてるを知りたいのです!
何故ですか!
在庫はどちらにいらっしゃるのですか!
ご無事でいらっしゃるのですか!
どうすれば売って頂けるのですか!
ご命令を、ご命令をください!」


と髪を振り乱しながら決死の嘆願を……するなどということも無く、至って淡々と、ただしそこそこ愛想よく、
「わかりました。ありがとうございます」
と軽く頭を下げて映画館を後にした。


今日の夕方。「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を観た。
作品についてはまた後日に語るとして(だからこの記事には「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のネタバレは一切ない。ご安心ください)、今は「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のパンフレットの話をしたい。

私はこの作品に並々ならぬ期待を抱いていた。それゆえに映画館に到着するやいの一番にしたことと言えば、パンフレットの確認であった。
しかし、売店の一覧表によれば「在庫切れ」。
当然ながらがっかりしたが、「無理もないなあ」と、わりとあっさり諦めたのもまた事実である。
理由としては、人気作品だから。そしてその映画館の規模はお世辞にも大きいとは言い難いから。
パンフレットだけなら他の映画館に立ち寄って購入することもできる。
そう思ったからこそ、一覧表に書かれた「在庫切れ」の赤い文字を難なく許すことができたのだ。
もうちょっと言うならば、その一覧表の扱いの見事さも私の心を見事にやわらげてくれた。
上部に作品名とパンフレット価格がリスト形式で記載され、下部に各作品のキービジュアル(ないしパンフの表紙画像)が縮小されて飾られている。「在庫切れ」の文字はどちらにも入っているが、下部画像の絵柄を損なうことなく、すみっこに「在庫切れ」の赤いシールがちょこんと居座って役割を果たしている。
その何でもないような気配りを私は好ましく思ったのだった。

そして映画終了後。
私の手は塩辛い水を吸ったティッシュ三枚を握っていて、足はグッズコーナーにつかつかと踏み入っていた。
わかっている。グッズはおろかパンフレットすら存在しないことぐらい痛いほどわかっている。
だけど自動手記人形でなくたって、私がお望みなら私は自ら駆けつけるのである。可能性のある場所へと。
すると、どうだろう。そこで私は一抹の光を見いだしたのだ。
なんと、無い。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のパンフレットが「在庫切れ」であることを知らしめる、あの非情な文字が。
私はかすかにうろたえつつ記憶をたぐった。
確かに映画鑑賞前は「在庫切れ」とあったはずだ。それがわずか二時間二十分の間に復活したとでも言うのか?
あり得ないことではない。
ならばその僥倖と恩恵に浴さずして何とする。
しかし私はそこで気づいてしまった。
「在庫切れ」の文字は、完璧に消え失せている。下部のキービジュアルからは。
ただ、上映の一覧表には健在なのである。変わらず赤く輝いて「在庫切れ」と声高に主張している。
だが困惑など刹那の出来事だ。
店員に聞けば良い。
だから私は躊躇なくレジの横で何かしらの作業をしていた店員さんに歩みより、冒頭の問いを投げかけたのである。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
映画に限らず、この作品の中で幾人ものひとたちが呼ばわった、その名。
「……の、パンフレットは」


これで話は終わらない。
もう少しお付き合い頂ければ幸いである。


映画館を出てからの私は平静を保った装いの荒ぶるオタクそのものであった。
「今の私は手負いのジャッカルだ。いやジャッカルはどうかな、行き過ぎだな。そんなに獰猛になる様な話じゃないし。もともと他の映画館で買うつもりでいたんだし。そうね、手負いのチンチラってとこかしら。そういえばチンチラってちゃんと見たことないけどどうなの?ジャッカルと比べてどうなの?もっと分かりやすくマルチーズあたりにしといた方が良い?チーズで思い出したけど今夜の夕飯どうしよう。まあその前に一階(ショッピングモール内だったので)の本屋さんでヴァイオレット・エヴァーガーデンの関連書籍でも探してみようかな。そうだ本屋の隣ペットショップじゃん。チンチラいるかも。よしとっくりと見てくれるわ。そうよ私はチンチラの名にふさわしい者になるのよ」
そんなことをつらつら考えながら早足でエスカレーターを目指していたもので、気づくのに遅れたのかもしれない。
「お客様」
そう声をかけられても、ショッピングモール内はお客様だらけである。よもや自分のこととは思うはずもなく、そのままエスカレーターの手すりに指を乗せようとした、その時。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
立ち止まり、振り返った。最初に目に入ったのは、どこかで見た様なシャツの色。そこから焦点を上へ移動させると、こちらを覗きこむ男性とまなざしがかち合った。
「……の、パンフレットをお探しだったお客様ですよね」
そこでようやくその男性が映画館の店員さんであることに思い至った。え、と開きかけていた唇をマスクの下で一旦つぐみ、首ごと頷いた。
「はい」
「たった今パンフレットが入荷されまして」
再び、え、と象る。口ではなく、全身全霊が。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
他のお客様の邪魔にならぬよう、互いに足並み揃えて脇に寄る間も、彼は続けた。
「……の、パンフレット、お買い求めになられますか」
「はい。ありがとうございます」
もちろん、即答であった。
彼は、では、と先に立って映画館へ向かう。ほんのちょっとだけ小走りで。私はそれを追って隣を行きながら、こんなことあるのか、となかば戦慄すらしていた。
それでも感謝の気持ちは尽きないものだから、重ねずにはいられなかった。
「本当にありがとうございます」
「いえ」
「あの、わざわざ追いかけてくださったんですね。何だか、すみません」
「いいえ」
彼はぴたりと歩みを止める。私の謝罪が引き金になったかの様に。
そうして私に向き直り、片足を半歩ほど引いてゆるく膝を曲げ、制服のシャツの裾をつまみ、慇懃に頭を下げる。

「お客さまがお望みなら、どこまででも追いかけます。
ユナイ〇ッド・シネマKグッズコーナー担当、
パンフレット・エヴァーガーデンです」


そう、落ち着きはらった、しかしプロの矜持がひっそりと滲む声音を発し……ということなど無く、ただ、再び目を細めた。在庫切れを確認した時とはどこか違う、安堵したような佇まいで。
「まだ間に合いそうだったので。良かったです」
私があと二十ほど若かったらあえなく恋に落ちていたであろうことはもはや疑うべくもない。


今、私の手もとには「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のパンフレットがある。
帰宅し、紅茶を淹れ、ソファに沈みながらぱらぱらとめくった。
私がこれをちゃんと読むのは早くて三日後だろう。映画を観た後はしばらく自由きままな想像や妄想に浸りたいたちなのだ。
だからまだまともに読んでもいないパンフレットの中身について語ることなどできはしない。
しかし、このパンフレットにまつわる話をすることはできる。ここまで書いたことが、そのすべてである。


「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
もしパンフレットがほしいのに既に在庫切れだったら、ぜひ、店員さんに尋ねてみてほしい。
本当に無いのかと。いつか入荷する見込みはあるのかと。
彼らは答えてくれるだろう。片足を退けず、シャツやエプロンやスカートを持ち上げることもなく、もしかしたらお辞儀もせずに、だけれどその職務にふさわしいプライドとスタイルをもって。

「お客様がお望みなら、どこでも駆けつけます。
自動手記サービス、
ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」


この台詞に相当する言葉や行動で、きっと答えてくれることだろう。



「探してよかった」





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