すぐそこにある貧困と搾取|映画 『家族を想うとき (Sorry we missed you) 』 (ケン・ローチ監督作) を観て考えたこと

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わたしはミネオリョウヘイ。38歳。広島県江田島市でオリーブの栽培や加工をしている。

『家族を想うとき』を観た。2020年の元旦に。ひとりきりで。見る前には持ち合わせていなかった鈍く重い持ちものが、映画館を出てからも心に残るような映画だった。読後感ならぬ観後感が良いとは言い難い。ゆえに、書いておこうと思う。

※本投稿は映画の内容についての話を含みます

あらすじ

(いらないひとは飛ばしてください)
 
『家族を想うとき』はイギリス北部ニューカッスルに暮らすとある家族、ターナー家についての話。
 
4人からなる家族構成は、
 
・父 リッキー 個人事業の宅配ドライバー
・母 アビー パートタイムの介護福祉士(訪問介護)
・息子 セブ 16歳
・娘 ライザ 12歳
 
冒頭、これまでにリッキーが数多くの職に就いてきたことが知れる。

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「勝つのも負けるのもすべて自分次第」

一念発起したリッキーは、宅配ドライバーになるべく、本部から来ている責任者と思われる男(マロニー)と面談する。エリアを担当する配送ドライバー。会社の雇用社員ではなく、ドライバーそれぞれが個人事業主であるという形態。フランチャイズ。よくある話。よくある形態。いわゆる下請けだ。休みを取りたきゃ自分で代わりのドライバーを見つける。それが出来なければ1日100ポンドの制裁金を払う。なぜならば、それはすべて「自己責任」だから。よくある話。よくある話だ。
 
1日14時間、週6日の労働。宅配に使う車は会社からリースすれば1日65ポンド。車(配送に使えるようなバン)を買うとなれば頭金だけで1,000ポンド。正直、この前提だけで「やっていけるかどうか」不安になるような選択だ。それでもリッキーはやる。車を買う。訪問介護士である妻の車を売り、そのお金を頭金にして。
 
面談にて、マロニーはリッキーにこう言う。「勝つのも負けるのもすべて自分次第」であると。でもさ。わたしたちは一体何と闘って、何に勝とうとしているのだろう。

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健康で文化的な生活を送る権利

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
 
わたしたちの国の憲法に書かれている言葉だ。
生存権といわれるこの25条は、以下のように続く。
 
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
 
わたしたちが生まれながらに持っているこの権利を維持するのは、国の役割なのだ。
 
イギリスの憲法にあたるものに、この「生存権」を記した一文があるかどうか、わたしは知らない。頭の良い方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。

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転がってゆく生活、差し出す時間

ターナー家の生活は少しずつ転がっていく。
 
平凡なわたしたちがより多くの収入を得たいと思ったとき、差し出せるのはまずもって時間だ。時間は有限なので、差し出してしまったらどこかで足りなくなる。
 
ターナー家の場合、足りなくなっていったものは家族の時間。家族の会話。
 
妻アビーは車を失い、バスを使って訪問介護に行く。自分ではトイレに行けなくなった老人や、障害者の家へと足を運び、食事やその他のお世話をする。その姿はとても献身的だ。
 
バスを待ちながら、移動しながら、アビーは息子や娘に携帯でメッセージを送る。

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ずれ始めた家族生活のしわ寄せゆえか、セブが少しずつ道を外れる。勉強のできた優等生だったというセブは、仲間とつるんで街のあちこちにグラフィティを描くようになり、学校には行かなくなる。そしてケンカをし、学校からは休学を言い渡され、やがて警察のお世話となる。
 
セブの心はどんなだろう。大学へ行くにはお金がかかり、お金が必要となれば両親の時間がさらに削られる。しかし、大学へ行ったからって何になるのだろう。大学を出て就職することにどんな意味があるのだろう。そうした心情は痛いほどわかる。やり場のない苛立ち。
 
セブのことで学校や警察から親が呼び出されるが、リッキーもアビーも時間が足りない。急に休める仕事ではない。しかし、セブに前科をつけるわけにも行かず仕事を休む。休むたびに制裁金を払うようになるリッキー。次第に悪くなる父子の仲。声を荒げ、ついには手も出る。リッキーとアビーの会話にも「離婚」という言葉が出るようになる。

なぜ家族の幸せは転がり出してしまうのだろう。その理由のひとつに、余裕がない。お金の余裕。時間の余裕。心の余裕。

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なぜ。そのきっかけ

ターナー家が転がり出してしまったのはなぜだろう
 
彼らはリーマンショックの影響でマイホームを手にする夢を一度壊されている。銀行と住宅信用組合が破綻し、あげく、リッキーは働いていた建設会社をリストラになったという。リッキーが職を転々とする日々は、そのときから始まったのだ。
 
さて。これは誰のせいなのだろう。誰が悪いのだろう。誰の努力が、誰の才能が足りないせいなのだろう。リーマンショックで銀行が破綻、ローンとマイホームの夢が崩れ、仕事も失う。それは一体、誰のせいなんだろう。

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わたしの父

わたしの父は68歳。わたしを含めた3人のこどもを、母と一緒に育て上げた。
 
高卒の父は自転車で北海道まで二度旅をするなど、ストレートな肩書きからはほど遠い。20代半ばで親戚のプロパンガス屋で働きはじめ、兄が生まれたのが27歳、30の歳にわたしが生まれ、34の歳で妹が生まれている。
 
わたしが学生の頃、父が働いていたプロパンガス屋が廃業し、父は職を失っている。資格をたくさん持っていた父はタクシー会社に就職するも、ごく短期間で辞めている。今ならわかるが、見知らぬひとを待ち、会話を合わせることが父には苦痛だったのだろう。そこから、運送業、さらには教習所の送迎ドライバーをしてきた父は、定年してもなお、いまだ働いている。
 
3人のこどもを育て上げた父の立派さを思う。いまのわたしの歳の頃にはすでに3人の子を持ち(兄はすでに11歳、わたしが8歳だったのだ)、家族を養う責任をその両肩に背負いながら汗を流していたことだろう。
 
父とわたしの間にある30年。30年のあいだに、この国は豊かになったのだろうか。健康で文化的な生活を営む権利は、どのように守られてきただろうか。ときどきふと、思う。わたしたちは、親の世代と比べて、どれほどの生涯賃金を稼げるのだろうか、と。

家族まるごとワーキングプア

ワーキングプアという言葉は、わたしの印象では主に若者層に使われてきたと思う。正規雇用ではなく、派遣で雇用された若者たちは充分な収入を得れず、ネットカフェに寝泊りする難民をも生み出した。
 
ターナー家を見ていると、家族まるごとがワーキングプアの状態である。まじめに働いているのに借金は減ってゆかない。時間だけが削られ、家族の仲は破綻に近づいている。

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善良なる、ふつうのひとびと

彼らは、いわゆる「仕事ができないひと」ではないし、「サボるひと」でもない。確かに、映画で観るかぎり特別な才能はないかもしれないが、それでも彼らはごく普通の、善良なるひとびとだ。そのことが一層、胸を締めつける。
 
リッキーは不慣れながらも宅配ドライバーという仕事に励み、その勤務態度はマロニーをして「優等生」と言わせるほどだ。事実、仕事に慣れてきたリッキーはより荷物の多い地区に配送ルートを変更してもいる。

妻アビーもしかり。「自分の親と思って被介護者と接する」ことを大切にしているアビーの仕事ぶりは丁寧で、残業手当のないパートタイムの介護福祉士でありながら、頼られれば時間外であろうと介護へと足を運ばずにはいられない。人間を大切に仕事する。ひとを見捨てることのできない、真面目で心やさしいひとだ。
 
宅配ドライバーも介護福祉士も、ただでさえきつい仕事だ。加えて彼らには、家族の問題が起こってゆく。わたしなら、逃げ出してしまうかもしれない。しかし彼らは、逃げ出すどころか、無理をしてでも仕事へと向かう。それはすべて、家族のため、家族を想うがゆえ。なんて心やさしく、まじめなひとたちなのだろう。彼らは決して「ダメなひとたち」ではない。リッキーはアル中でもないし、ギャンブルに手を染めてるわけでもない。セブが道を外していくとはいえ、(あえて言うが)たかだかグラフィティだ。なのに、彼らは転がってゆく。

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強盗、自己責任、制裁金

映画『家族を想うとき』では、終盤、リッキーがあるトラブルに巻き込まれる。配送途中に強盗に襲われ、荷物を奪われ怪我を負う。怨嗟の犯行ではない。これもまた、貧困が生み出した歪みとしわ寄せだろう。
 
病院の待ち合いにいるリッキーに、マロニーから電話がかかってくる。盗まれた荷物の罰金、壊れたスキャナー機の弁償が告げられ、そして、「明日の仕事はどうなる?」という言葉が投げかけられる。強盗に襲われようが家族に問題が起ころうが、それはすべて「自己責任」。仕事に穴を開けるのなら制裁金。クソッタレな社会だ。そう言う以外に言葉が見つからない。

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家族の笑顔、幸せの時間

物語の後半、家族が久しぶりに笑い合うシーンがある。4人でテーブルを囲み夕ごはんを食べる。リッキーとセブは冗談を言い合い、みながそれで笑っている。その幸せな時間にもアビーに電話がかかってくるが、セブの提案のもと、一家はリッキーの配達車でクライアントのもとへ向かう。その車内での家族の幸せそうなこと。リッキーもセブもライザも、みなが笑っている。
 
ともに食事をし、ともに車で移動する。家族みんなで時間を過ごす。ただそれだけのこと。そこにある、笑顔の時間。家族の笑顔を生み出しているものは、なにも大げさでなく、ほんの些細なことなのだ。ただそれだけの幸せを保つために、一家はどれほどの時間と労力を差し出さなければならないのだろう。

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映画が問うもの

リッキーの怪我をきっかけに家族は再度同じ方向を向きかけるが、リッキーはそれでも無理する生活を選ぶ。休めば無給どころか制裁金だ。腫れて見えない片目で、折れた骨のままで、仕事へ向かう。選んでしまう。選ばざるをえない。「いったい何と闘えば、家族を幸せにできるの?」
 
物語はそこで終わる。ターナー家はどうなるのだろう。

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わたしたちは、わたしたちの社会は、リッキーを、アビーを、セブを、ライザを、ターナー家を救えるだろうか。ターナー家と同じような境遇にいるすべてのわたしたち自身を、見捨てず、見ぬふりをせず、いれるだろうか。彼らが「健康で文化的な生活を営む権利」を維持できるよう、ともに怒り、立ち上がることが出来るだろうか。

Sorry, we missed you.
「明日はわが身」、観終えた直後にはそのように感じていたが、時間が経つにつれ、わたしたち自身が問われているような気持ちが強く沸いてきている。

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発狂せず、蒸発もせず、生き続けていくこと

ケン・ローチが描いた家族の風景は、きつい。個人事業主、フランチャイズの契約。おそらく有給も手当もなく、保険も自分もちだろう。病気や事情で仕事を休めば「自己責任」。報酬がないどころか制裁金を払う始末。きつい。

そして、ターナー家が転がり始めたきっかけが、リーマンショックという、一家には到底関係ないであろう出来事であるということ。きつい。

しかも。真面目で心やさしいターナー家でさえこうなのだ。この状況においてもなお、彼らは病んでもないし発狂してもいない、蒸発してもいないし、それでも前を向こうとしている。ずるもせず、誰かを見捨てたりもせず。もし、リッキーが病気になったら? もし、セブやライザがまだ幼き頃に今の状態に直面していたら? 家族はどうなってしまうのだろうか。

『家族を想うとき』で描かれる風景は、きつい。けれどもこれは、すでにイギリスで、そして日本でも起きている現実だ。

Based on a true story

CINRAの記事を引用する。

イギリス南西部ドーセットのクライストチャーチに住む53歳のドン・レーンは、英国最大手の配送会社「DPD」でアパレルメーカー・ネクストやショッピングサイト・エイソスの衣服などの配達員として19年間働いていた。レーンは糖尿病を患っていながらも、あまりに配達スケジュールがタイトなため病院に通うことができず、ある日、運転中に倒れ、糖尿病性昏睡に陥ってしまう。もう限界が近づいていた彼は、糖尿病によって引き起こされた目の症状の治療のため、事前報告して休みを取った上で診察を受けに行った。しかしDPD側は欠勤によって依頼分の配達をこなすことができなかった代償として、彼に150ポンドの罰金を科した。DPDは配達員を業務委託扱いにし、荷物を配達するごとに報酬を加算する方法を採用し、ドライバーが依頼した分の配達を達成することができなければ損害賠償を請求する規約を敷いていたのだ。
 
もし体調が悪くて働けないならば、配達員たちは、カバーしてくれる代役を予め用意するか、制裁金を支払うかしかない。彼らは、有給休暇や最低賃金を保障された労働者として扱われていなかった。レーンは、罰金制度による請求を恐れていたために以前から何度も予約していた診察を飛ばして勤務に出ていたのである。それ以降、追加の罰金を支払う余裕もない彼は、病院に通えないままクリスマスの配達ラッシュの間も無理をして働き続け、その結果、2018年1月4日に死亡した。
 
イギリスの名匠ケン・ローチの最新作『家族を想うとき』は、この出来事を部分的に基にしている。

すべての人が持っているはずの権利

再び憲法25条を読みたい。
 
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
 
もしわたしの解釈が間違っていなければ、すべて国民は、勝とうが負けようが、みな平等に権利をもっているはずだ。むしろ、不運にして負けてしまった人にこそ、国はその努めを果たすべきなのではないだろうか。
 
過度な競争社会は、成功者を生み、転落者を生む。誰かを出し抜いて成功するのがうまいひとや、ゲームのように株で儲けるのがうまいひと、そして、そうなれない多くのひとがいる。儲けを突き詰める企業は働き手を直接雇用せず、保険を負担せず、有給休暇さえ付与しない道を選ぶ。リッキーもアビーも、最低賃金さえないゼロ時間契約だ。「新しい働き方」や成果報酬型といえば聞こえがよいが、それはいつでも替えがきくような使い捨てだ。

わたしたちが住むこの社会は、良心が支えている。支えてきた。良心、良識。いつかあなたが転んでも、わたしたちが積み立ててきた「余り」であなたの生活を支えます。それが保障であり、共同体であり、良心、良識、憲法が定めた生存権だとわたしは思ってる。

それが、最近、どうだろう。

消費税が10%まで上がった一方で、法人税を支払わないままの企業がいる。内部留保が過去最高を更新し続ける一方で、大卒初任給も最低賃金も微増しかしていない。

明日はわが身

わたしはミネオリョウヘイ。38歳。

広島の江田島という島でオリーブの会社をしている。会社を作ったといえば聞こえがいいが、東京のシステムに馴染めなかっただけなのだ。大学は中退、満員電車のサラリーマンも10年で限界だった。自分で自分に給料を払う自営業。体だけが資本だ。いまはまだ少しだけ余裕があるけれど、この先どこまでいけるだろう。あと何度失敗しても大丈夫なのだろう。いつまで健康で文化的な生活を保てるだろう。

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考えてみたいふたつのこと

ここまで読んでくれているひとがもしいるならば、せっかくなのでともに考えてみたいことがある。

ケン・ローチの「怒り」

ひとつめ。

前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』を最後に映画界からの引退を表明していたケン・ローチは、引退を撤回してまでこの映画を作っている。各種資料に目を通せば、その理由は「怒り」と書いてある。「現代社会への怒り」。その「怒り」は、何への怒りなのだろう?
 
現代社会、新自由主義、グローバリズム、搾取の構造、政治家、政治家を選ぶわれわれ、いつしか勝ち負けばかりに目がいっている政治家とわれわれ。もっともらしい言葉は出てくるけれど、くっきりとした「これ」というものが出てこない。少なくともわたしには。そのことが一層現実を暗くさせる。かすかなきぼうは、いったいどこにあるのだろう。

何があればよかったのだろう

ふたつめ。

より具体的に考えてみたい。この社会の制度やシステムが、いったいどうだったらターナー家は転ぶことなく暮らせていたのだろうか。

宅配便業者の給与がもっと高かったら? 正規雇用以外での働き方が禁止されていたら? 介護福祉士の給与がもっと高かったら? リーマンショックが起こるような世界ではなかったら?

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ターナー家が苦しまずに済んだはずの具体策が、すべての人々の「生活部面について」の「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」につながるはずではないだろうか。

その社会の実現に努めるのは、わたしたち自身であり、わたしたちの良心であり、政治なのだ。きっと。

もう一度。

わたしたちは、わたしたちの社会は、リッキーを、アビーを、セブを、ライザを、ターナー家を救えるだろうか。ターナー家と同じような境遇にいるすべてのわたしたち自身を、見捨てず、見ぬふりをせず、いれるだろうか。彼らが(つまり、わたしたちが)「健康で文化的な生活を営む権利」を維持できるよう、ともに怒り、立ち上がることが出来るだろうか。

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◆参考
 
ケン・ローチ『家族を想うとき』が見つめる、「搾取」で回る世界|CINRANET
https://www.cinra.net/review/201912-sorrywemissedyou_gtmnmcl
 
【統計から見る】イギリスの過去20年間の最低賃金(時給)の推移
https://japanesewriterinuk.com/article/history-of-the-minimum-wage.html
 
【統計から読む】イギリス人の給料と仕事時間はどのくらい?
https://japanesewriterinuk.com/article/income.html
 
セブン「元日休業は直営店だけ」に加盟店オーナーの不満爆発 | Close-Up Enterprise | ダイヤモンド・オンライン
https://diamond.jp/articles/-/224772

BBCニュース - ウーバー運転手は「従業員」 米で企業負担求める州法が可決
https://www.bbc.com/japanese/49671529

ウーバーはドライバーの搾取をやめろ、報酬削減で抗議デモ|Forbes Japan
https://forbesjapan.com/articles/detail/26343

「家族を想うとき」に見るフランチャイズの問題 映画から読み解く個人事業主が抱える苦悩 |東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/320385
 
『家族を想うとき』|長周新聞
https://www.chosyu-journal.jp/review/14933

名匠ケン・ローチが『家族を想うとき』で問う「私たちにとって仕事とは何なのか」|ハフィントンポスト
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5df07838e4b06a50a2e6accd?ncid=other_twitter_cooo9wqtham&utm_campaign=share_twitter

ギグ・エコノミー礼賛の裏で「自由な自営業者」を襲う貧困と家族の崩壊|現代ビジネス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69497

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