見出し画像

空っぽの将来の夢

 思えばずっと、私の将来の夢は否定されることばかりだったような気がする。

 小学生の頃は、将来はイラストレーターになりたいな〜と思っていた。理由は絵を描くことが好きだから、ただそれだけ。
 さすがに小学生の私の夢を真正面から否定する人は誰もいなかったけど、だからといって後押ししてくれる人も特にいなかった。そもそも私は特に誰かに自分の夢を言っていなかったと思う。絵を描くのは好きだけど特に上手なわけでもなかった私にとって、その夢は叶えられるか分からないものだったからだ。小学生の私にとって将来の夢は遠い存在で、だけどいつもキラキラしていた。
 とはいえイラストレーターとしてご飯を食べていくことは簡単ではないと言うことは分かっていた。だから私は「商業美術家になりたい」という覚えたてのぼんやりとした日本語を使って、将来の夢についての卒業文集を終わらせた。美術に関わるなんらかの仕事でお金をもらえたら夢が叶ったことになるな〜と思ったからだ。イラストレーター になりたい! と大きな声で言って、夢が叶わなかったらなんだか恥ずかしいような気がしていた。小学生なんだからもっとのびのび好き勝手いい散らかせばいいのに、私はすでに人の目を気にして発言する窮屈な小学生だったのだ。

 そうやって曖昧な言葉でなんとか卒業文集をクリアしたものの、次は卒業式で壇上で一人ずつ将来の夢を言わなければならなくなった。私はそれが本当の本当にめちゃくちゃ嫌だった。
 そもそもその卒業式はたった五人程度の生徒のためのとても小さな卒業式だった。というのもその日体育館に集められた生徒はみんな市内の不登校の子供たち。名前も知らないような他の子たちはとても静かでなんだか暗くて、そして私はとにかく怒っていた。
 なんで自分の将来の夢をこんな名前も知らないような人たちに言わなければいけないんだ、聞いたところでどうせ何かを思うわけでもないのに、叶えてくれるわけでもないのに、言霊を勧めているわけでもないだろうし、まるで馬鹿にされている気分だ、一体なんのためなんだ、と内側で何故かものすごく怒っていた。
 しかも私たちは学校にすらちゃんと行ってもいないのに。(今の自分は怒るよりも悲しくなるタイプなので、小さな頃の自分は間反対でちょっと面白い)不登校の子供たちに将来の夢を壇上で言わせるのは結構酷と今も私は思っている。

 それでもいよいよ将来の夢を言わなければならなくなった時、わたしはその場で言葉を考え、こう言った。

「まともな大人になりたいです」

 それは不登校の子供たちに将来の夢を語らせることを強制し卒業式に無理やり行かせた教員たちに向けた言葉だったのかもしれない、熱心な宗教信者なのに誰にも知られないようにこっそりと悪いことばかり繰り返す母親に向けてだったのかもしれない、仕事や遊びばかりで家に帰ってくるのは毎日深夜だった父親に向けた言葉だったのかもしれない、とにかく怒りから出た言葉だったのは間違いない。
 私たち以外の、普通に毎日学校に通っていた子供たちも壇上で将来の夢を言ったんだろうか。みんなは何と言ったんだろう。何の葛藤もなく、するすると言葉が出てきたんだろうか。

:少し脱線して不登校の話

 私は小学校の三年生の後半から六年生まで不登校だったのだけれど、それでも何人か友だちがいた。学校に来ない私のことを心配して毎週一緒に遊んでくれていたのだ。とても優しい子たちだった。彼女たちはみんなクラスの中心にいるような明るくて活発な子達だったけど、絵を描くのが好きだった私に合わせてみんな一緒にで絵を描くこともよくあった。一人だけものすごく絵が上手い女の子がいて、すごく憧れていたな。そこにいた子たちの名前や顔はもうほとんど覚えていないけれど、そのあたたかさだけは今も覚えている。
 卒業式の後、いつものようにみんなで友達の家に集まって、卒業アルバムの後ろに寄せ書きを書いた。私も持ってくるように言われていたけど、忘れちゃった、と言って笑った。

 だけど本当は、すでにこっそりとゴミ袋に忍ばせて捨てていた。
 自分の顔があまりにも酷かったからだ。

 卒業アルバムの写真を撮った日のことをぼんやりとだけ覚えている。駅の近くにある写真館に連れて行かれて写真を撮らされた。そういう記憶がある。写真館のおじさんはなんとかしてわたしを笑わせようとして頑張っていて、わたしにはどうしてもその姿が滑稽に見えていた。なんて大変な仕事なんだろう、こんなに暗い女の子を笑わせるためにこんなに頑張らなくちゃいけないなんて。わたしはこの学校システムが嫌で、今ここで写真を撮られることが嫌で、おじさんがどう頑張ったってわたしは笑顔を作りたくなんてないのに。なのに笑顔にならなきゃいけない、笑わないと終わらない、笑わなきゃいけない、いけない、いけない、いけない……したくない。
 どうやってその地獄のような(おそらくわたしよりも写真館おじさんにとって)時間が終わったのかは覚えていないけど、一度だけざっと眺めた卒業アルバムの中にいた小さなわたしは、この世の全てを憎んだようなひどい顔をしてカメラを睨み付けていた。最後まで笑えなかったのだ。

 そういえば同じ学年に一人だけ不登校の友達がいた。同じフリースクールに通っていた男の子で、私はその子の妹ととても仲が良かったのでよく家にも遊びに行っていた。かなりしっかりとした引きこもり故にフリースクールの中でもレアキャラだった彼はゲームがめちゃくちゃ好きで、家でもフリースクールでもずーっとゲームばかりしていて、そしてものすごく強かった。彼と対戦するぷよぷよは最高に楽しかった。全力で戦っても勝てないことばかりで、特訓しがいがあった。今でもやりたいくらいだ。
 卒業した後は一回も会っていない。あの日の小さな卒業式に彼がいたのかも覚えていない。ただ覚えているのは、卒業アルバムをめくったときに見た彼の顔だ。彼は私と全く違って、とてもいい笑顔をしていた。私よりも学校嫌いだったくせに、引きこもってゲームばっかりしてるくせに、ぷよぷよ対戦めちゃくちゃ強いくせに。アルバムの中の彼の表情はいい笑顔だけど穏やかで、ゲームをしている時の顔とも部屋に引きこもっている時の顔とも全く違っていた。とても上手な笑顔だった。私はなんだかとても複雑な気持ちになってアルバムを閉じた。

 本当に、歪みまくっている小学生時代だった。歪みまくっていたわたしがあの日壇上で言った「まともな大人になりたい」と言う言葉の意味を、今日のわたしはまだ知らない。

 なんとも言い難い小学生時代を終え中学生になり、以前よりもまた将来について考えなければならなくなった。
 自分に合った飯能山奥学園に通い出したおかげで小学校の頃よりもだいぶ元気を取り戻してきた中学生のわたしは、その頃には素直にイラストレーター になりたいと言えるようになっていた。誰もそれを笑ったりバカにしないということを実感できるようになってきていたのだ。しかしそれも一瞬で、イラストレーターになんかなれないよ、と母にバッサリと言われたわたしは早々にイラストレーターを諦めた。母の言うことはなんでも受け入れる子供だったのだ。

 それでも将来の夢は必要だった。質問された時にサッと答えるために、そして何となく自分が安心するために。

 イラストレーターがダメならどうしよう、それなら別の何か好きなことを仕事に……と考えた私は、「図書司書」になりたい! と言うことにした。「図書司書」はとても便利な将来の夢だった。頑張ればなれるし、わたしは本の虫だったから本や本が好きな人たちと一緒にいられるのは楽しそうだなと思ったからだ。もちろん楽ではない体力仕事だけど、お給料も低いけど、それでも本に関わる仕事には惹かれたし何よりその将来の夢は結構人受けが良かった。
 ところが今度は副担任だった教員に、みゆきが図書司書になんてなれるわけないでしょう〜本投げちゃうでしょ? と言われた。確かにその頃のわたしは朝から晩まで米を荒らしに来る猪をどうやったら撃退できるか考えていて、田んぼに水を引くために泥まみれのホースに口をつけて川の水を懸命に吸い込むような子供だった。だからといって本を投げるわけないだろ! 頼むから子供の夢くらい応援してくれよ! と思いながらもわたしは「図書司書」になりたいと言い続けることにした。もちろん理由は楽だったからだ。みんな簡単に納得してくれたし、母も悪い顔をしなかった。
 (司書になんてなれないよ! と言い放った教員は、農業の先生になって学校に帰ってきてね〜〜もしくはビジネスウーマンになってスーツケースにいっぱいお金を詰めて帰ってきてね〜〜〜〜とニッコニコの笑顔で言った)

 とはいえ本当は中学生の頃は「農家(の嫁)」になりたかったし、高校生は「舞台照明家」になりたかった。だけど私はそれを誰かに話したことは特にない。絶対に叶えられないことがわかっていたからだ。

 ある時母親に、農家さんになりたいな〜と何となく言ってみたことがある。
 母がどんな顔をしていたかは全く覚えていない。母は直感的な人ではないから、すぐに突っぱねるようなことはしなかったはずだ。ただ、農業は楽園(天国)でやりなさい、と言われたことだけがずっと頭の中にある。同じ理由で舞台照明家がダメなことも私にはよくわかっていた。不規則な勤務スケジュールで、夜遅くまで働かなければいけないからだ。宗教活動ができなくなるからだ。

 その点図書司書はいい。勤務時間は大抵決まっているし、人との交流が少ないから不道徳な何かにつながることも少ない。

 高校二年の冬、進路相談の時にも私は変わらず「図書司書」になりたい、と書いた。それを見た担任はわたしに幾つかの学校を薦めてくれた。図書館情報学について学べる学校、司書資格を得ることができる学校たちだった。どこも楽しそうだったし、馬鹿みたいに内申点だけは高かった私は推薦だったらどこでも可能性がありそうだった。
 だけどやっぱり母の顔は渋かった。大学に行くことがよくないとされている宗教だったからだ。短大なら行けるか? と思って一人でオープンキャンパスに行って見たりしたけど母の顔は変わらず、結局私は一番なれそうだった「図書司書」になることもできなかった。
 もちろん司書資格はなくてもアルバイトをすることはできる。さらにバイトをして経験を積み、資格のための試験を受けて司書資格を得るということもできる。

だけどその時点で私は自分のやりたい職業を目指すことに疲れてきてしまっていた。
 将来の夢はある、だけど自分はそのスタート地点に立つこともできない。
 周りの友達は、なりたい職業のためだったり好きなことをさらに学ぶために自分に合った次の学校を選んでいた。だけど私はそもそも大学に行けない。母が許さない。

 それでも母は私に、職につながる専門学校なら行ってもいいと言ってくれた。絵が好きだった私が一番行きたい学校は美術の学校、だけど当然学んだとて仕事につながる保証がない美術学校はダメだ。
 なんだったら母は許してくれるだろう、と悩んだ末、私は英語の専門学校に行くことにした。英語を勉強しておけば、何にでもつながる可能性があると思ったからだ。何より母もいい顔をしてくれた。英語ができれば世界中で聖書のことを宣べ伝えられるね、と言われた。私もそう思ったし、いつか聖書を英語で読んでみたいな〜と思っていたから、いい選択をしたつもりだった。
 とはいえ本心としてはもうなんでもいいやと適当に決めた英語の学校生活は続くわけもなく、結局一年で行くのをやめてしまった。
 特に興味があるわけでもない英語、しかもビジネスよりの勉強ばかりで、授業中はいつも落書きばかりしていた。入学して二ヶ月で、あ、これは多分無理だな心が死にそう、というか学ぶ体制になれないなら時間の無駄だと思った私は、美術学校を探し始めた。バイトを増やして入学金と授業料を貯めながら。もちろん母には言わなかった。
 英語の学校から一番近い美術学校は通学途中にあり、なんだかお洒落な建物でちょっと有名らしい。すでに閉校が決まっており新規入学を断られたものの、その場を通りかかった教員が助けてくれたおかげで途中入学ができることになり、そこからはあっという間に話が進んだ。それがセツモードセミナーという、ファッションイラストレーションとタブローの学校だった。(母には、学校から入学許可をもらってから言った)もちろん長沢節という人の名前やファッションイラストレーションという言葉すら私は知らなかった。とにかく絵を描ける場所で入学金が安い場所ならどこでも良かった。(しかも結局父が入学金を援助してくれた🤗)

 だけど私はもう将来の夢を持っていない。ついに美術の学校で絵を描き始めたけど、楽しかったけど、将来の夢は空っぽになってしまった。

 どんなに「イラストレーター」以外の夢を持とうとも、小さな将来の夢すら叶えるために努力する間もなくつぶされ続けてきた結果だった。潰されてきた理由は簡単に言うことができないけど、一言で言えば母の考えだった。大学に行くことがよくないとされている宗教だとはいえ、ある子は美大に行っていたし大学に行って専門職についた子もいたからだ。
 せめて私も努力させて欲しかった、スタートラインに立たせて欲しかった。
 もちろん親に対して怒っているわけではないし、自分の環境を憂いたことはないし、私はいつだって自分で選んでそこにいた。自分でちゃんと納得して夢を諦めてきたし、誰も間違ったことは言っていなかった。だけどただ、そういうグルグルモヤモヤとした悲しい気持ちはなかなか捨てることができない。


 二十一歳の時母の元を離れ、私は将来の夢をまた持てるようになった。
 そうしたら、苦しかった日々が少しずつ和らいできた。息の詰まっていた日々が、モヤがかかって何も見えなかった視界が少しずつ開けてきた。ただやり過ごすためにじっと日々を送るのではなく、のびのびと過ごせるようになってきた。
 生きるのを諦めてしまうことばかり考えてきたけど、それでも、こんな私でも生き延びることができるかもしれない、そう思えるようになってきた。

 だから私にとって将来の夢はとても大切だ。それは私にとって生き延びるための小さな光のようだ。
 そこに向かうために私は今歩いている。そこにたどり着くために、私は今たくさん学んでいる。たくさんのものに出会っている。
 今まであった嫌なことや苦しかったことを全部ひっくるめて大切にしながら、自分の足で進んでいる。もちろん嬉しかったことや幸せなことも全部抱えながら。

 私の夢は、綺麗な湖と山のあるところで畑をやりながら絵を描いたり音楽をすること。それはこの二年ずっと変わっていない。
 そして今、私にはもう一つの夢がある。それは、その場所を多くの人に開放すること。気軽に覗けるドアが開きっぱなしのギャラリーのように空気がいっぱい入る場所をいつか作れたらなあと思いながら、私は今日も歩いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?