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バスの中

私は将来の夢がコロコロ変わるタイプだったと思う。
最近はやりたいこと、やらなければいけないと思うことが多すぎて、ずっとぐるぐるしている気がする。だから何になりたいか、と言うよりも何がしたいかを考えるようにしている。


何になりたいか、それを考えることは一生の自分の肩書きが決まり、人生の方向が決まり、死に方が決まる。そんな気がして怖くて仕方が無くなる。死ぬのが怖いというよりも、人生を閉じるのが怖い。ジェットコースターでものすごい高さからおちる時に感じる恐怖に似ていると思う。あえて将来を鮮明に描かずにいることで、自分自身の人生の終わりを不明確にして安心感を得ている。

そして生きていくということは、少しずつ自分の中の「何か」を消耗し、失っていくことだと思う。その「何か」の限度が分からない今は、「何か」を意識せずにいられるが、もっと歳を重ねるとその「何か」が自分自身の活動範囲を狭め、思考も狭めてしまうような気がする。まだ19だから分からないけれど。
その「何か」の限度が見えてきた時にどれだけ動けるかは今という日々で自分の省エネモードを見つけるか、自分の楽な生き方を習得出来るかにかかっている。iPhoneのラスト1%が意外としぶといのと同じ感じだとおもう。今できることは自分の心のバッテリーが劣化しないように生きていく。

最近は焦りもある。あれもこれもしたいと叫ぶ自分の心と、それを黙らせるかのように詰められたスケジュール。やりたいこともやらなければいけないこともやれてない気がして、もっと頑張らなければいけないという気持ちになる。頑張るの定義が分からないが、一人暮らし、大学生、月100時間以上の労働、帰省は半月に1回。それだけでしんどいし、自分では頑張っているとおもう。でもそんなことに頑張るを使っている自分が虚しくて仕方がない。大学という場で、バイト先で輝くということに囚われたくない。「置かれた場所で咲きなさい」なんて言葉を母が読んでいた本に記してあったが、そんなものはたまたま居たところが自分にぴったり合っていた人が言う戯言だと思ってしまう。もっと自由にもっと深く自分を生きたい。

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