旅と観光(前編)

 突然だが、旅行というものは意味のあるものだろうか。私はつまらないと思う。皆さんもあるのではないだろうか?「ガイドブックに載っていたから来てみたけれどこんな大仏を見ることになんの意味があるのか」と思ったことが。私たちがこのような意味のない旅行をしてしまうそのわけは、私が「見所主義(みどころしゅぎ)」と呼んでいる歪んだ観光のあり方にある。本稿前編では、現代の観光を批判する。後編では解決策をいくつか述べようと思う。

「見所主義」とは何か
先に定義を述べておきたい。見所主義とは、
〈観光において、ピンポイントの際立った物にのみ価値を置く主義〉
のことである。際立った物とは、何か特別な特徴が見出されるもののことである。例えばそのへんに落ちている石は際立った物とは言わない。すごい巨石、巨木だったら際立った物になりうる。ここでは「ピンポイント」という部分が大事である。見所主義は以下に述べるような問題点を引き起こしている。

現代の観光の批判① 意味のない画一的な観光のしかたが一般的になっている
 どこかへ旅行するとなった時、第一声は「そこに何があるの?」ではないだろうか。どうしてか私たちの旅行の目的は、(ガイドブックやネット情報によって指定された)見所、例えば大仏や滝やスイーツやレストランに行くことに始めから限定されている。確実に見所に出会いたいから事前に下調べするので、現代の旅行は予め調べておいたチェックポイント(見所)を確認する作業になってしまっている。こんな旅行は学びにもならなければ、楽しくもない。
 京都に観光に来る人に、清水寺や金閣寺、銀閣寺を点と点を結ぶように車でさっさと移動して観光してしまう人が多いのは、見所主義の典型と言えるだろう。京阪電鉄の方が「駅から歩いたほうが本当の京都の風情を感じられるのに」と嘆いておられた。

現代の観光の批判② 派手競争
 待ち受ける側も見所主義を利用する。事実を誇張したり都合のいいところだけ切り取ったりするイメージ戦略で人を呼び込み、観光客向けにお膳立てした表面的に派手なものを見せて消費してもらい、金をとるという歪んだ産業になっている。どこにでもありそうな素朴な滝をイルミネーションしたりするのはその例だと思う。観光客側もそれで何となく満足した気になっているからこの歪みが是正されない。要するに、観光業は、ピンポイントのものに注目する見所主義ゆえに、見所一点の派手さで競う競技になってしまっていることと、そのせいで魅力はあるけど見所はない地域が無視されてしまっていることが問題だ。

現代の観光の批判③ 見所以外の魅力がなくなる
 とはいえ完全に見所主義が消滅するべきだとは主張しない。楽しいのなら見所主義を脱する必要もない。見所主義を脱した人間も際立った物に価値を感じること自体はやめなくていい。だが、見所主義が広がりすぎてしまうと観光地側もそれに対応して見所を開発していくので、見所以外の魅力(文化や風情など)が削られてしまうのが問題なのだ。そういう意味では景観条例などはいい取り組みだと思う。

現代の観光の批判④ 旅自体に寄り添わない観光業
 観光の広告を見ると大抵信じられないほど美しい写真が載せられている。それはベストポイントのベストコンディションで撮った写真を載せているので、実際はそれによって想像させられるより悪くならざるを得ない。これは観光業にとって、客が旅行すると決まった時点で勝負はついているということを示唆しているのではないか。実際に観光客が旅行するときには、口コミが悪くならないようにご機嫌をとればいいだけなのだ。これはとても短絡的な思考に思える。
※④に関しては、見所主義のせいではない。

見所主義が一般的になった理由
これは簡潔に言える。見所は商品化しやすいからだ。観光客が旅行をするきっかけを作るには見所が一番手っ取り早い。見所のためなら観光客もわざわざお金と時間をかけて来てくれる。それに見所は人や雰囲気と違って変化しないので客に一定のクオリティを提供できる。要は観光業界の戦略だ。(陰謀論みたいになってしまった)

全ての観光地がこれに当てはまる訳ではない。だが見所主義は確かに存在し、観光客の意識に根ざしていると感じる。私の感想と言われればそれまでだが、ひとつの見方として受け取っていただけたら幸いである。

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