慢性の痛みと患者さんの物語 ~『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』~を読んで思ったこと

慢性の痛みには、患者さんの物語が大きく影響しています。

患者さんにはそれぞれ、「なぜ病気になり、なぜ治らないのか」そして「なにを思い、考え、感じているのか」という個々の「物語」があり、この「物語」がよくも悪くも、病気や症状に大きな影響を与えています。 
人生を変える幸せの腰痛学校』あとがき 289pより

なので「痛み」に対する認知(思いや考え)を変える認知行動療法が効果的なのです。

『人生を変える幸せの腰痛学校』を書いた当時は「慢性の痛み患者さんには」と限定的に理解していましたが、そうじゃないですね。「これがわたし」と思っていること自体が物語で、人生は物語そのものなんですね。
詳しいことはこちらの記事をご覧ください。

先日読んだ『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』青土社というの中に、慢性の痛みと物語のお話が書かれていました。

車いすの医師、熊谷晋一郎さんと4名の方との「痛み」に関する対談本です。哲学者大澤真幸さんとの対談の中からいくつかの文章を紹介します。

ある時点で傷を負い、神経系を含む肉体に可塑的変化が生じる、そしてその変化が身体図式の一部として物語化できない・意味づけできないために、いつまでもヒリヒリと痛むとき、その傷(記憶)をゼロにするような薬を投与すると、過剰投与になりかねない。 ところが、さらにそこで「えいやっ」と痛みを無視して身体を動かすと、身体がさらに傷 (情報) を蓄え出すのですね。つまり、傷を増やしている状態と言えるのかもしれません。 その新たに「えいやっ」と動き出して摂取した情報群が、身体の中で意味づけのネットワークをつくり、身体図式が受傷後の肉体の変化を組み込んだものへと更新される。つま り、動き出すことで痛みが小さくなるという傾向です。 これは急性疼痛と慢性疼痛の治療 の方向性がまったく逆の方向を向いているつの例です。
『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』25ページ

物語化できない・意味づけできないために痛む、ということが実際にあるのかどうなのかは疑問ですが、たしかに、慢性痛は「痛くても動け」(といってももちろん程度はありますよ)です。
そして動いた方が痛みは小さくなることが多いですね。

慢性疼痛の研究の中では二つの種類のサポートの仕方があると言われています。一つは「痛み随伴性サポート (pain-contingent sup port) 」 と言われるものです。痛んでいる相手に共感して痛みを取り除いてあげようという 形で、相手が「痛い痛い」と表現するたびに、それに応答義務を果たすような形でいろいろな手立てを講ずるという、極端に言えば、痛みに振り回された形でのサポートです。 もう 一つは、「痛い痛い」と表現する人の痛みはさておき、それ以外の部分、例えば社会復帰 のための手立てを講じるとか、身体が不自由であれば介助をするとか、痛みとは関係のな いところでサポートをしていくもので、これを「社会的サポート (general social support)」と 呼んで前者と区別しています。そして、「痛み随伴性サポート」は、痛みをかえって悪くすることがわかってきています。 一方で「社会的サポート」、痛みをある種無視して本人を手助けするサポートはよく転がる場合が多いと言われています。 ここにすごく難しいと ころがあると思っているのですが、臨床的には非常に重要な違いだと思います。 
『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』30ページ

これはこの通り。
わたしが「改善していないのに、なんとなく通っている治療院やリハビリ通いを即やめること」をお勧めしているのは、それらが「痛み随伴性サポート」だからです。
それでは患者さんの「物語」は変わりません。

そして、わたしが行っている「腰痛学校」や「腰痛学校オンラインコミュニティ」は、「社会的サポート」です。
ここでは「痛みについて学ぶ」ことはやっていますが、個々の痛みに対してのサポートはしていません。

 例えば急性疼痛だと信じ込んでドクター・ショッピングをしている患者さんにじっくり時間をかけて慢性疼痛の講義をすると、結構痛みがとれたりすることがあるということを聞 いたことがあります。 つまり、「ああ、慢性疼痛という物語があったのか」ということで、 痛みが薄らぐ。
『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』40ページ

そういえば、わたしの講演を聞いただけで痛みが軽くなる方はたくさんいらっしゃいました。
『人生を変える幸せの腰痛学校』を読む読書療法が効果的なのも、「物語」に対してのアプローチだからです。

 実は自分自身が二次障害で首が痛くなったとき、ドクター・ショッピングをしてしまったのですね。知識としては慢性疼痛も知っているし、急性疼痛の知識もあるわけです が、しかし、「先生、本当は急性疼痛なんじゃないの?」と言ってしまったのです。つまり、本当は器質的な原因があるのではないかと。 それで三軒目に行ったとき、初めて信じられたという感覚を持つことができました。 一軒目、二軒目もそれほど悪い担当医ではな かったし、説明もそれほど変わらなかったのですが、三軒目に行ったとき、何だかよくわからないけれど、その人の「急性疼痛ではありません。だから何も治療する必要はありま せん」という言葉が信じられたのです。いまだに自分でも不思議なのですが、確かにおっしゃる通り、対人関係にコミットしたという感覚は非常に大きくて、実際説明の内容も診察の内容も知識のレヴェルもまったく変わらないし、あらかじめ知っていることばかりだったのに、何かこう信じられたという現象、関係性にコミットできたという現象が起き ました。その瞬間から痛みがスッとよくなるような感じがあったので、今のお話を伺ってまた改めてじっくり考えてみたいなと思いました。
『ひとりで苦しまないための「痛みの哲学」』45ページ

ここに書いてあることがわたしの存在意味なんでしょうね。
「なにも治療する必要はない」というわたしの言葉がすっと入り、「痛み随伴性サポート」である治療院通いをやめられる人は、痛みが改善したり、痛みがあるままに豊かな人生を送られたりする傾向があります。

以上、「慢性の痛み」と「物語」のお話でした。
わたし以外の方で、「慢性の痛み」と「物語」についてこんなに詳しく書いた本があったことがうれしくて紹介させていただきました。

今、慢性の痛みでお困りで、この話に興味がおありの方は、拙著『人生を変える幸せの腰痛学校』を、本を読んでも改善しない方は「リアルまたはオンラインの腰痛学校」、もしくは「腰痛学校オンラインコミュニティ」にいらしてください。個別相談も行っています。


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