手紙
拝啓、
庭に植えた梅の花が今日ひとつ咲きました。すこしずつ春の気配を感じはじめました。
それだけ書き綴ったところで便箋を片手でくしゃりと崩し、冷めてしまったほうじ茶をすする。窓に面したカウンターに敷いた座布団が四席分と、小さなちゃぶ台の席がひとつ、向かい合わせに敷かれた座布団の間に佇む。たったそれだけの、ちいさな店だった。背後にあるキッチンからは炊きたての米の甘くて香ばしいにおいが漂い、ちいさな店内をすっぽり包み込んでいる。窓から入る陽気がまぶしい。
くしゃくしゃにした紙を丁寧に伸ばし今度は角と角を合わせて折りたたむ。そうしてできた四角い便箋たちがよっつ、机の木目に沿って並んでいる。
「捗りませんか」
店主はときどきこうして声をかけてくる。タイミングを見計らっているのか、決まって四角たちを並べ終えた指先が離れた瞬間に。いまここには店主とわたししかいなかった。必然的に、話しかけている対象はわたしになる。
「捗りませんね、お恥ずかしながら」
「手紙って難しいですよねえ。メールよりもこう、なんていうか、妙にかしこまってしまうっていうかねえ」
まあ手紙なんて書くことそうそうなくなってしもたんですけど、と店主は加えた。
人当たりの良さそうな、たとえば海外にひとりでふらっと出向いて旅をしても現地民とすぐに仲良くなれそうな、そういうタイプの彼にあまり手紙は似合いそうにないな、と思う。それと同時に、いやいや案外現地からポストカードなんかにひと言添えて送ってくるようなタイプかもしれない、とも思う。どっちだろうと、どうでもよかった。今日初めてここに来て、初めて知った店主のひととなりに、それほど興味もなかった。ただ、不愉快に思わせない距離感を保ってくれることだけはありがたかった。
新しく取り出した便箋に万年筆の先を近づけては、そこにインクが垂れる寸前に離す。そして筆を置き、冷えた湯呑の茶を体内に流し込んだ。
店主と窓の外だけが陽気で、それがだめなのだろう。米の甘いにおい、茶の香ばしさ、温かな陽気、朗らかな店主、柔らかい空気。それらを染みこませた白い便箋に、黒いインク、万年筆を握るわたしの文字が、言葉が、気持ちが、あまりに違いすぎて。
「書きたいこと書けばええと思いますけどねえ」
店主は気楽にそう言う。そうできたらこんなにもくるしくないのに、という思いに黒いインクを垂らして滲ませて隠し「そうですよね」と言葉を返した。
伝えたいことがたくさんあった。それらのどれから伝えたらいいのか、どういう言葉を選んで、どう書き始めたらいいのか。考えるだけで容量を超えてしまい、便箋と財布と筆箱と鍵とを鞄に詰め込んで外に出た。古い時代に建てられた古民家や、真新しいデザインの現代建築が入り混じって存在する町並みを歩く。商店街のほうにはたくさんひとの姿が見えるけれど、そこを離れてしまえば途端にひとが少なくなる。歩くたびに、いっぱいいっぱいだった容量のメモリをすこしずつ消去していく。
通りがかったギャラリーで新しい展示が催されていた。中にいたひとと目が合い、誘われるままに立ち寄る。今回は四人の作家によるグループ展でそれぞれの絵画、イラスト、写真が展示されている。葉書サイズの紙を複数重ねて一枚の写真を成している展示に、すこしだけ足を止めた。うつくしい夕焼けだった。迫る夜の色と、まぶしいくらいに燃える夕日の色に目を染められてしまう。奥行のあるギャラリーの奥では雑貨が販売されており、棚をひと通り眺めてから、裏口のような小さな出入口を出る。急な階段を数段降りたそこには真っ青なタイル貼りの井戸と、わたしの身長をはるかに超えるほどの大きな鉢植えが静かに息をしてそこにいた。
細い路地をひたすら進む。途中で見かけた黒猫に誘われては逃げられ、追いかけてゆくままに。方角も現在地も捨て、瞳を染めた夕焼けがすこしずつ薄まっていくころ、ここにたどり着いた。
二階にある店の窓からは通りを行くひとの姿が見下ろせる。古民家を改装し、複合施設としていまもなお生きているこの建物は日本人にも外国人にも惹かれるものがあるのだろう。ときおりカメラを構えているひとの姿も見えた。そのたびに、自分の姿も写り込んでしまうのではないかと手のひらがちくちく痛んだ。
「余りもんですけど、よかったら」
写真を撮り終えたひとが満足そうに帰っていく姿を追っている間に、店主はおむすびをひとつ皿に乗せてわたしに出した。
「あの、」
「ええんです、もうすぐ店じまいなんで、食べてってください」
「え、何時ですか、店じまい」
「まちまちですよ。だいたい四時くらいかなあ」
店内の時計を見る。入口の上にかけられた時計が午後三時過ぎを示していた。
「今日のは柚子味噌なんですけど、食べれます?」
問う声に曖昧に頷く。手を合わせ、きれいに結ばれた三角形のおむすびの角を箸で崩し、上に添えられた柚子味噌をすこしだけ乗せて、ひと口。甘い味噌のあとに柚子の香りが口の中から鼻へと上がってくる。米の甘さが噛むたびに増していく。
「おいしいです、はじめて食べました、柚子味噌」
「そうですかあ、よかったです」
うれしそうな声で店主の顔は綻び、ゆっくり食べてください、と言ったきり彼はまた自分の仕事に戻った。
すこしずつ、すこしずつ、ほどいていくように、端から崩していく。木目に沿って並ぶ四角たちが恨めしそうに見ているような気がした。またいっぱいになっていた容量が、食べることで消化していくように空きメモリを増やしていった。生きることは食べること、食べることは生きること。
だけど実際、生きていくことはそれだけでは済まない。食べることも、眠ることも、考えることも、思うことも、しなければいけない。話したいことや伝えたいことが増えることも、うつくしいものを見てうつくしいと思うことも、きれいな音を聴いて安らぎを感じることも。時には怒ることも、悲しむことも。すべてあって〝生きる〟は成立していく。
ああ、これも、伝えなければ。
空いたメモリに詰め込まれ、また埋まっていく。
あなたに伝えたいことがあるのだ。見せたいものがあるのだ。聴かせたいものも。そしてそれらを、すこしでも多く、いっしょに共有していきたいのだ。
半分までほどけてしまったおむすびの欠片たちが胃のなかでわたしを宥めている。そんなに焦らなくてもいい。一度にすべてを詰め込まなくていい。ひとつずつを丁寧に伝えていけばいいよ。
「これもよかったらどうぞ、温かいほうじ茶」
店主はまた絶妙なタイミングで温かいお茶を出してきて、冷え切った湯呑を下げて行ってしまう。お礼を言うばかりのわたしに、彼は「なんの、いつもこんなんですようちのサービス」と笑いとばした。
温められた淹れたてのお茶が喉を通って、胃に落ちたとき、絡まっておおきな塊になってしまった何かが溶けていく音を聞いた。行儀よく並ぶ、なり損なってしまった四角たちを集めて、ひとつひとつを撫でて、筆箱にしまいこんだ。
米の甘い香り、茶の香ばしさ、温かな陽気、朗らかな店主、柔らかい空気。それらを染みこませた便箋に垂らすインクが、わたしの文字が、ふさわしくなかったとしても、それでも伝えたいことがあった。あなたに。だからわたしはあなたに手紙を綴るのだ。知っていてほしいことを、すこしずつ。
(手紙/160228)