うめことば
梅酒だれだぁ、という声に返事をしたとき周囲からは「え、のえ?」「野江ちゃんいけんの?」という声が湧いた。人づてに回ってくるグラスを受け取って誰と乾杯することもなく飲む。
以前いた会社の同期に誘われた飲み会だった。この日暇だったらおいでよ、と誘われて行った集まりには男が四人、女が三人。男性席に座っているひとは全員知らないひとで、女性席に座っているのは誘ってきた元同期のほかに、見知らぬ女性がふたり。彼女の友人たちだという。ハメられたのだな、と悟る。ハメられたというか、単なる人数合わせ要因だったのかもしれないし、お節介な彼女なりの〝お気遣い〟だったのかもしれないけれど。二十代も後半で、恋人もいなくて、友人もあまり多くないわたしのことを憐れんで。自分にはちゃんと恋人がいるくせにこんな場に顔を出していていいのだろうかと、席替えして遠くなってしまった同期の彼女をそっと窺う。爪にジェルネイルを施したうつくしい指に、いつもの指輪はいなかった。
乾杯時からずっとウーロン茶を貫いていたわたしに、向かいの席の男はさっきからうるさい。
野江ちゃん飲めないひとだと思ってた、無理してない? 普段から飲むひと? 最初は遠慮してたとか?
一見爽やかそうな印象のある、けれどとくべつ整っているわけでもない、ふつうの顔をした男だった。顔面が濃くないから、向かいにいてもさほど苦ではない。さっきまで向かいにいた男は顔面もノリも声も濃くて五感が死んでしまいそうだった。いまは少しだけ楽に息ができる。うるさいけれど。投げてくることばたちに、無理してないです、あまり飲まないけどほどほどには飲みます、と返す。会話を打ち切ることばたち。それでも男は、そっかぁ飲めるひとだったんだ、好きなのは梅酒? 他にも飲む? と繰り出すものだから、またしてもすこしずつ息が詰まってゆくのを感じた。同じテーブルの上では次から次へとことばが生まれて、転がって混ざりあって、低く高く音を奏でて、そうしてまた生まれているのに。
たとえば職場のひとたちとの飲み会やこういった場ではアルコール類を一切飲まないようにしている。それは、普段奥にしまい込んでいる言ってはいけないあれやこれをうっかり口にしてしまわないようにという自衛のためでもあるし、単純においしくないからだ。安い居酒屋や雰囲気だけがいいお店なんかのお酒は、おいしく感じない。それなら水やお茶を飲んでいるほうがよほどいい。
それでもいま、むしょうに、梅酒のお湯割りが飲みたかった。食べたものが胃のどこかから落ちているのか、なにを食べても満たされなかったから。向かいの男からの、こちらを探ろうとして差し出してくることばたちがわずらわしかったから。自意識過剰な自分自身に苛立ったから。
そしてそれはやっぱりおいしくなかった。絶望的に、おいしくなかった。むなしい気持ちだけが胃に落ちてしまった。
二時間の飲み放題コースのラストオーダーを迎えて、会は一旦お開きの流れになる。二次会どうする、の声に対して元同期の友人のひとりが終電を口実に一足先に抜けることを告げる。それに対して「じゃあ駅まで送るよ」と紳士ぶって名乗りをあげたのは最後に彼女と仲良く喋っていた男だった。ほかのふたりはアルコールが入って陽気さが増し、カラオケに行きたいとわめいている。恋人はどうした、とわたしは心のうちで一瞬だけことばを浮かばせたけれど、自分には関係ないことだとすぐに忘れた。
「野江ちゃんはどうする?」
問いかけてきたのは、うるさいエセ爽やか男だ。元同期とその友人もふたりして「のえも行こうよ」「行こ行こ!」と声を重ねる。
「せっかくだけどあした予定あるから、ごめんね」
「ええー、残念」
賑やかに誘う声を断るのはすこしだけ、ほんのすこしだけ、こころが痛んだ。それなのに彼女たちはあっさりと、仕方ないねと言った。
彼女たちにはけっして悪意も他意もないのだろうと思う。純粋に、楽しいからおいでよと誘っている。けれど忘れているのだ。〝楽しい〟と感じる基準が十人十色、千差万別であるということを。すこし前まで同じ制服を着て、同じ時間に出勤して、同じ職場で仕事をして、同じ時間に退勤して、お昼を一緒に過ごし、上司や同期の愚痴を共有していたことで、同じ感覚を持つ同じ種類のにんげんのように見えているのかもしれない。錯覚してくれているならわたしの日々は成功していたことになり、日々失敗していたことにもなる。
「駅まで送ろうか」
エセ爽やか男はまだつきまとう。大丈夫です、二次会代わりに楽しんできてください。思ってもいないことを、なるべく失礼のないことばで、そして突き放すように声にする。
駅、場所わかる? 野江ちゃんどの電車? JRだったらこの道まっすぐ行けばすぐで、地下鉄だったらちょっと離れてるけど、大丈夫?
男は相変わらずよく喋った。たくさんのことばが降ってくる。男の背が高いせいだ。頭から汚れていくみたいだ。
「大丈夫です、このへんよく来るので」
「そっか、それなら大丈夫か。なんかごめんね」
ようやく離れられると思ったら、男は「あっ」と声をあげるのと同時に携帯電話を取り出す。次に降ってくることばがもう見えていた。
「もしよかったら連絡先教えてよ。店で野江ちゃんのだけ訊きそびれたから」
みんなに訊いてるからあなたの連絡先も教えてください。そう言われると断りづらいのを知っている。かしこい手口だ。そうしてそれを断りきれずに携帯電話をコートのポケットからまんまと出してしまう自分に、またひとつがっかりする。結局突き放すことも、気安く馴染むこともできない。
無駄なメモリーを増やしてしまった帰り道で、いますぐ世界が終わってくれと願いたくなる。深夜に近づく駅はひとと音と光で溢れていた。ホームに入ってきた電車の、騒々しい車輪。改札口で機械に止められ引き返してゆく男性。行き先を示す電光掲示板。高いヒールを高らかに鳴らして改札口に駆け込んでゆく女性。駅の出口付近でひっそり鳴らされるギター。飲み屋の客引き。大学生くらいの若い男女の賑やかな群れ。あやしげなスーツ姿の男は道行くひとを眺めている。みんな馴染んで見えた。日々にうまく溶け込んで、けれど溶けてなくなってしまうわけでなく、個人としてきちんと存在している。
梅酒がおいしくなかった。
たったそれだけのことなのに。たったそれだけで、自分のすべてが欠陥しているように思う。
ほんとうはただの自意識過剰で、男はきっとさほどわたしに興味なんてなかった。あれは場の空気を温めるのが上手なひとで、浮きそうになっていたわたしを水で溶かして場の色に馴染ませようとしてくれていただけだった。そういう〝お気遣い〟を、わたしが上手に受け取れないだけで。野江ちゃん、と呼ぶ男の距離感が不快にしか思えなかった自分を雑踏で潰してほしかった。
うまくひとの流れにも乗れず、改札機からすこし逸れて隣の切符売り場に流れ着く。各方面へと張り巡らされた路線図が頭上で絡まりあっている。流れ着いたついでにICカードの残金が少なくなっていたことを思い出して二千円分のチャージをした。
チャージをして、そして、立ち尽くす。
ひと。音。光。梅酒の味。ことば。不在の指輪。野江ちゃん。
後ろから「あの、」と急かす声が聞こえ、聞こえるかどうかのちいさな声で謝ってその場を空けた。
電車を待つ列の最後尾に並んで携帯電話を取り出し、数十分前に増えてしまった無駄なメモリーを見る。男のフルネームと、電話番号と、メールアドレスが登録されている。いまやだれもが所有している無料通話アプリのIDを訊かれたとき、持ってないんです、と答えると男は「じゃあメルアドと電話番号ね。うわ、懐かしいなこういうの」と慣れた声で返してきた。
指先ひとつで削除できてしまうたった数バイトのメモリーだった。それっぽっちのものを削除するだけなのに、後ろめたい気持ちが静かに息をする。
電車がプラットホームに入ってくる。中から溢れ出てくるひとの群れが、誰が言うわけでもなく自然な流れを作り出している。当たり前のように。そのうちメロディが鳴り、電車は走り出す。わたしを乗せずに去っていった。ひとと光と音を乗せて。
取り残されたホームで、指先の後ろめたさがまだ息をしている。電話帳を上に下に、行ったり来たり。数回繰り返すうち、ひとつの名前だけしか目に入らなくなっていた。
――三村理海。
理海さん。
あれだけのろまだった指先があっという間に発信ボタンを押していた。いますぐ聴いてほしかった。梅酒のお湯割りが、ぬるくて薄くてどうしようもなくおいしくなかったことを。たったそれだけのことを。
『もしもーし』
間延びした応答の声が聴こえた。後ろでは賑やかな店内の音楽が流れていて、仕事中であったことを同時に知らせてくる。それも構わず、わたしは叫んだ。ひとの目も忍ばずに。
「梅酒のお湯割りがおいしくなかった!」
『なんやそれ! またそんなしょーもないことでぐじぐじやってんのかサチは』
少し低めの、遠慮のない声とことばが入り込んでくる。すこしも不快ではなかった。さっきまで居座っていたむなしさが、あっという間に溶けてなくなってしまった。むなしさが埋まって今度は泣きたくなった。
理海さん。サトミさん。さとみさん。
名前が、声が、ことばが、わたしを埋めてゆく。
『今度こっち来るときにおいしいお酒出してくれるとこ連れてったるから機嫌直し』
「うん」
『来るときちゃんと連絡しいや。また酒の勢いとかで来んといてよ』
「シラフじゃ行けない」
『ええ、なんでよ』
「正気じゃ新幹線乗らない」
『どないやねん』
さとみさん。さとみさん。さとみさん。
彼女がすこし電話を離し、だれかの声に返事をする。次に来ることばがもう見えていた。
『仕事中やからもう切るで。なんか用事あったんやったら、あとでかけ直したほうがええ?』
「ううん、いい。話したいこと、もう言えたから」
『ほんまにそれだけ言いに電話してきたんかい、暇やな自分』
しょうもないわたしを、理海さんは笑い飛ばす。そうしてほしかった。心配されたり、気遣われたりしたかったわけではなかった。
ほなね、また。
電話の最後、いつも彼女はそう言って三秒後に切り、わたしは電話が切れる音を待つ。すこし熱を持った携帯電話を操作して、男のメモリーを今度こそ削除した。着信拒否の設定をしてから、消した。
(うめことば/160401)