龍神憑き

 今年の梅雨は雨がほとんど降らなかった。
 四本足でのったり歩く音と二本足でだらだら歩く音が、西日に染まった砂利道を荒らしている。前を行く犬が時々おれを振り返って後方確認し、また尻を少し振りながら前を向く。何を考えながら歩いているのだろう、と思う。散歩楽しいとか、あれはなんだとか、そんなことを考えているのかもしれないし、あるいはなにも考えていないのかもしれない。おれもおれで、いまは冷蔵庫の中身を思い出していた。一昨日、近所の山田さんにもらったとうもろこしがまだ一本残っていたはずだから炊き込みご飯にでもしよう、とか。
 上機嫌で歩いていたタロウがふいに鼻を鳴らして歩みをぴたりと止めた。空気のにおいを熱心に嗅ぎとっている。手に持つリードの先でそうしているタロウの様子を見て、おれも空を見上げた。空はようやく長い日が傾いてきて、淡い青の底に朱が混ざった美しい夕暮れだった。梅雨が数日前に明け、本格的な夏が訪れようとしていた。
 タロウが情けない顔をしておれを見た。それからぐるりとターンをして、来た道を戻ろうとする。いつもの散歩コースの、まだ半分ほどしか到達していないというのに。タロウは気が穏やかな犬だが、唯一苦手なものには徹底的に譲歩をしない。交渉の余地すら与えない。嫌だと言えば嫌なのだ。おやつですら釣れない頑なさである。なのでおれは抗うこともせず、引き返すタロウの後を追って出てきたばかりの家へと戻っていく。背から流れてきた風に乗って、草と土と、わずかな雨のにおいがした。

 おれの毎日はとてもシンプルに出来ている。朝昼晩の飯を食うこと、畑で育てている野菜の世話をすること、墓の掃除をすること、タロウの散歩に一日二回付き合うこと、月に数件パソコンを通じて依頼されてくる仕事をすること、風呂に入ること、眠ること。一週間ほとんど変わりない。台風や雪の日は畑の作業がすこし増える程度。ルーティンのような日々を、ここでの暮らしを、おれはほどほど気に入っている。退屈を考える暇もなくやるべきことが決まっていて、それをこなしていれば夜が来て朝が来る。ときどき訪れる大荒れの天候でスケジュールを大きく変更させられたとしても、数年の暮らしでだんだん想定内のものとして扱えるようになった。
 ただ、おれのそんなささやかな暮らしを容易く崩しにくる要因は、あるときふらっと予告もなく現れる。
「おじゃま」
 縁側で寝そべりながら、彼は片手を挙げてそう挨拶した。めったに吠えないタロウが元気なひと声を出した。尾がぶんぶんと揺れていた。


 縁側に腰掛け、タロウの足を拭く。彼は「元気だったかあ、三代目」と犬の頭を乱暴に撫でた。三代目、というのは彼がつけたタロウのあだ名である。以前この家にいたサチコとコハルという先住猫の次に来たから三代目、らしい。タロウはタロウで、尾を振りすぎて尻まで揺らしながら喜んでいる。犬はとても賢い生き物で、タロウと呼んでも三代目と呼んでも反応する。自分の名前だという認識がきちんとあるのだ。もっとも、三代目などと呼んでいるのは彼くらいしかいないのだけれども。
「三代目ってこんな色だったっけ。たしか茶色い柴犬とかじゃなかったか?」
「タロウはずっと雑種」
「そうだっけか、まあなんでもいいけど」
 よっつの足を拭き終えて、ついでに自分の足も拭いてからおれもようやく家へ上がる。彼はまだ縁側でタロウと戯れていた。

 悠かに晴れると書いて、ゆうせいと読む。それがこの男の名だ。
 たいそういい名前を授かったと思うのだが、残念なことに彼はどうしようもなく雨男だった。世に聞く晴れ男とか雨男とかその女バージョンだとか、そういうものをあまり信じてこなかったけれど、彼がこの家に滞在している間はものの見事に雨続きなのでおれも雨男の存在を信じるしかなかった。おれが認める唯一の雨男であろうと思う。
 この家を祖父から譲り受け、この地に移住して数ヶ月が経った梅雨明け間近のころ、彼は突然現れた。小雨が降りはじめた夕暮れに、縁側で寝そべっていた。彼と祖父は密かに交流を持っていたようで、おれはそれをまったく知らなかった。彼は祖父のことを〝善じい〟と呼び、五年ほど前からふらっと遊びに来てはひと月ほど滞在していたそうだ(祖父の名に善の文字はない。善人じいさんの略称らしい)。どれほどの付き合いだったのかはわからないけれど、祖父が他界したことを知らせたとき、彼はその死に目にあえなかったことを悔いるような表情を見せた。それからすぐに墓参りへ向かった。
 年齢も、どこでなにをしているのかも、なにも知らない。見た目はおれと同じ、三十代半ばほどのように見える。突然ふらっと現れてはひと月ほどこの家に滞在し、またふらっといなくなる。どこへ行くのかも告げずに。初めのうちは不信感から探りを入れてみようかと、いくつか質問を投げかけてみたけれど、すべてのらりくらりとかわされてしまった。そのうちにおれも問うことをやめた。
「飯は」
「んー……あれ、朝食べたっきりだなあ。そういえば腹減ってるわ俺」
 夕の散歩が早めに終わったので、夕飯を前倒しにする。軒を弾く雨音が聞こえはじめた。

 楕円型の卓袱台を囲って、悠晴と食を共にする。なにもかもが古いこの家で唯一、ちいさな液晶テレビだけが時代を飛び越えてここにある。このテレビも、地デジだなんだという時期に祖父が買ったものだからもう年季ものではあるけれど。
 夏野菜炒め、冷奴、味噌汁、とうもろこしの炊き込み飯。食卓に並んだものを見て彼は「相変わらずだなあ」と言った。メニューに肉がないことを言っている。過去に聞いた話では、祖父とも似たような食事をしていたという。
 おれがこの家によく遊びに来ていたのは高校生までで、働きだしてからは訪れることがほとんどなくなっていた。学生時代にはまだ祖母が生きていたのでもうすこし彩りのある食卓だったような記憶があるけれど、ひとりで暮らしはじめてからの祖父は畑の野菜を消費するための食事をひとりで作り、それをひとりで食べていたのだ。そんな祖父の日常を、おれは彼から聞いてはじめて知った。
 夕方のニュースを読み上げる男性アナウンサーの声、食器が軽くぶつかる音、屋根を弾く雨音、ぽつぽつ交わす言葉、相槌。
 夜になって風が出てきたので、食事の途中で吹き込まないように縁側の雨戸を閉めた。それを時折強く揺さぶる音が家に響く。

 悠晴のことをよく知らないのは、彼があまり自分のことを語ろうとしないからだ。たとえばここに戻ってくるまでの間、どこへ行ってどんな風に過ごしていただとか、そういう話をしない。まるで昨日もここでそうしていたかのように、ニュース番組が告げる出来事について口を挟む。いなかった時間をないものとして。なのでおれも問わない。
 彼はその後もりもりと出したものを平らげ、炊き込み飯を三杯おかわりした。


 悠晴が町にいることは三日と経たない間に広まった。おかげで小雨が降っているにも関わらず、今朝から訪問者が絶えない。滅多にならない電話もよく鳴るようになった。
「久しぶりねぇ悠ちゃん」「元気しとったか」という世間話から「ちょうど家の電球が切れてしもてなあ」「ちょっと畑の仕事手伝ってくれんか」というご依頼まで。どちらかといえば後者のほうが多い。彼は町内のいろんな家に駆り出されては働かされている。その報酬として野菜や果物や魚や肉やお菓子をもらって帰ってくる。この町のひとたちは皆、彼を慕っていた。彼も彼でひとが好いのか、依頼を断ることなく引き受けてきちんとやり遂げるものだから評判もすこぶるよい。評判がよいのは人柄と働きぶりだけではなく、器用さが要因の多くを占める。話し相手から荷物持ち、日曜大工、水道の水漏れ修理まで、たいがいのことができた。
 彼の毎日はパターン化されていない。予定を決めることなく気が向いた方向へ進むような過ごし方だ。タロウを散歩に誘い続けてはフラれ、町民たちに呼び出されたならひょいひょいと家を出ていき、日が沈んだ頃に帰ってくる日々。ただひとつ、起きて一番に仏壇に手を合わせることだけは決まっていた。

 日が暮れて、空がいっそう暗くなってきた。夜には雨足が強くなりそうだから雨戸を閉めたほうがいいだろうかと空の様子を窺っていたところに、町民の呼び出しに応じて出かけていた彼が戻ってきた。
「田村さんが、時間ができたら家に寄ってほしいって」
 アジを数匹もらって帰ってきた悠晴に預かっていた伝言を伝える。縁側に腰掛け、報酬であるアジをおれに差し出すと「きょうの晩飯これ焼いて」リクエストを寄越してきた。彼はなぜか玄関をほとんど使用しない。傘を差していたにも関わらず頭からしっかり濡れていたので、タオルを手渡してアジを受け取った。
「田村さんってどれ。禿げてるほう? メガネかけてるほう?」
「どっちでもない。ウメさんのほうの田村さん」
「ああ、ウメちゃんな。じゃあ車貸して」
 この町には〝田〟のつくひとがとても多い。おれも田のつく住民のひとりである。そして名字が似ていることと関連しているのかは定かではないが、似たような顔のひとも多かった。移住してきたころはよく名前やひとを間違えたものだ。町民たちもそれをわかっていて、呼び間違えたり人違いをしても笑って流してくれる。フルネームの名札をつけておこうか、と冗談のひとつとして申し出てくれたがさすがにお願いしますとは言えなかった。

 一定のリズムを保って、ワイパーがフロントガラスの雨粒を払う。払っても払っても雨粒はガラスを弾いて視界を雨に染めていく。
 彼の言う「車貸して」は「車で送ってほしい」という意味だ。免許は一応持っているらしいが、運転するよりも助手席にいるほうが好きだという。理由は「なんとなく」。彼は助手席の椅子をおおきく後ろに倒し、ラジオから流れてくる流行りの音楽を機嫌よく口ずさんでいる。都心で暮らしていたころはそれなりに流行りの音楽を知っていたけれど(情報源が溢れていたからだ)、いまはもうほとんど音楽を聴かなくなった。そして彼が歌いはじめてからさらに雨足が強くなってきたような気がする。ちょっと黙って、と言うと彼は予想通り「なんでぇ」と理由を問うてきた。
「龍神さまがごきげんになる」
「ごきげんならいいじゃん」
 聴き慣れない歌を口ずさみながら彼がダッシュボードに足を乗せるので、その度にそれを払い退けた。おれの鬱陶しそうな顔を見ては「にひひ」と気色の悪い声を上げて満足げに笑う。
 見渡すかぎり山と田畑が広がる道を、ときどき対向車とすれ違いながら進む。晴れていればその青々とした光景が美しく映るのだが、いまは曇天の空と雨で嵐のような不穏さが滲んでいた。一方で隣から陽気な夏のJポップを延々と聴かされるので、その陰鬱さは蓄積されることなく湿気ごと吹き飛ばされていく。これほどカラカラに乾いた男なのに、なぜこうも雨に好かれているのか甚だ不思議なものである。

 リーン、と音が伸びてよく響いた。お鈴を鳴らした彼の斜め後ろで一緒に手を合わせる。線香のじっとりした香りがすうっと身体に入り込んでくる。遺影にはやさしく微笑む見知った顔があり、閉じた瞼の裏に彼女の小柄な姿を思い浮かべることができた。まだ鮮明に。
 ウメさんが亡くなったのは春先のことだ。長らく自宅で療養していた彼女は夫に介護をされながら、ときどき悠晴に話し相手を頼んでいた。彼はけっして憐みをもって彼女に接することはしなかった。ただの話し相手という立ち位置を守り、外にも内にも踏み込まなかった。彼女もまた、めったに遊びに来なくなってしまった孫たちの代わりというよりも、歳の離れた友だちのような感覚だと常々話していた。田村さんの家は町からすこし離れた山のなかにあるので、年老いたひとが多い町民たちが訪問することはあまりない。それゆえ、悠晴が呼ばれていたのだ。おれを足にして。
「悠晴には世話になったから礼を言いたかったんや。こっちが行けんで、来てもろて悪いけど」
 彼がしばらく仏壇に手を合わせたまま動かなかったので、田村さんの言葉を代わりに受け取った。

「また見送れなかったなあ」
 帰りの車内で、悠晴はそう言ったきりひと言も話さなかった。倒した座席におとなしく収まって、目を閉じていた。ダッシュボードに足を乗せることもしなかったから、声をかけることもできなかった。
 その日の夕飯をリクエストの通り塩焼きにしたアジを出してやったら、彼はそれをきれいに平らげた。皿には頭と骨と尾だけが残された。


 悠晴とこの家で初めて会ったとき「おまえは誰だ」とほぼ同時に言い合った。雨が降りはじめた夕暮れのことだ。自分の家に見知らぬ男が我が物顔で眠っていたのだから、おれは当然そう言う。彼は彼で、前年と同じく祖父を訪ねただけに過ぎなかった。唯一タロウだけがすべてを知っていて、雨に濡れて元気をなくしていた犬は彼の姿を見つけるや走り寄って尾を振った。彼が犬を「久しぶりだなあ、三代目」と慣れた様子で撫でまわすので、家主であるおれのほうがこの場ではアウェイだった。いくらタロウが賢くても、にんげんの言葉は話せない。
「善じいは?」
 いま思えばすでにそのとき、彼は祖父の死を知っていたはずだった。起きて一番に仏壇に手を合わせる習慣のある彼のことだ、この家を訪れたときにもそうしていたと考えられる。仏間にある祖母の遺影の隣に祖父のものが加わっていることに、彼ならすぐに気づけるはずだった。ただそれを実感として受け入れてはいないのか、なにも知らない顔でもう一度彼は「善じいは?」とおれに尋ねた。もちろん当時のおれには誰のことなのかわからなかったので、それは誰だと問い返した。
「この家に住んでたじいちゃんだよ」
「ここに住んでたのは神田徳重というおれの祖父だ」
「ああ……善じいの名前、そうなんだ」
 そこで彼から〝善じい〟の由来を聞き、おれの知る祖父と同一人物であると認識した。
 祖父が前年の冬に他界したことを告げたときの顔を、おれはずっと忘れられない。最期を看取れなかったことを、死を見送れなかったことを、心から惜しむ顔だった。身内でもないのに、とても近しいひとを失ってしまった顔。悠晴が祖父によく懐いていたと町民から聞いて知るのはもう少し後のことで、そのときのおれは知る由もない。知ったいまとなっても理解ができない。なにが彼をそれほどの思いにさせたのか。この男がいきなり泣きだしてしまったらどうしよう、慰め方がわからない、と密かに戸惑っていた。けれど彼はそんなおれの心情も知らず、墓はどこにあるのかと問うた。この家の墓は檀家になっている寺の敷地内にある。言葉で道を説明しようとして、しかし口から出た言葉は案内するというものだった。  

 寺から帰るころには小雨からしっかりとした雨になっていた。帰りの道中、おれはいくつか彼に質問をした。まずは名前。これはすぐに答えてくれた。けれど、それだけだ。それ以外の問いにはことごとく答えてもらえなかった。年齢も、どこから来たのかも、何をしているのかも、何をしに来たのかも。正確には、祖父を訪ねてきたことは答えてもらえたけれど、何のために祖父を訪ねてきたのかは答えなかった。祖父とのことで答えてもらえたことといえば、どういう知り合いかという問いに対する「善じいは恩人」だけだ。わからない。
 そんな調子なものだから、おれは家に帰ってどうすればいいのかまったくわからず途方に暮れた。ひとまず客人としてもてなすべきなのだろうと思い、茶を出した。茶請けになるものはなにもなかった。雨が強くなってきて外の音が騒がしくなるにつれ、ますます追い出しづらくなった。せめて雨が弱まるまでは、と思っていたがいっこうに弱まる気配がない。救いだったのはタロウがいてくれたことだ。家に帰ってくるまで気落ちしておとなしかった彼は、出した茶をひと口ふた口飲んで息を吐いてからは少しずつ元気を取り戻したようだった。タロウを三代目と呼んで構い、テレビを勝手につけてチャンネルを回し、しまいには腹が減ったと言い出す始末。そうして初めて会った他人と夕飯を共にすることになってしまった。
 煮物と焼き鮭と味噌汁と白米。食卓を見た彼は「さすが善じいの孫だなあ」という感想を寄越した。どういう意味かと問えば、祖父と食べた食事もこんな献立だったと答えてくれた。そこでおれは祖父が日頃食べていた食事のことと、彼と食を共にしていたことを知ったのだ。
 すぐに帰ると思っていたこの客人は、結局ひと月ほどこの家に滞在し続けた。その間、雨はときに弱く、ときに強く、町に降り続いた。


 彼が滞在してから一週間と二日が経った、七月の終わり。雨音なく目が覚めたので窓の外を見ると久しぶりに晴天が広がっていた。
 カーテンを開け、布団を片づけたあとに客間を覗く。滞在中はいつもこの客間が彼の部屋になる。室内に敷かれた布団がまだ人型に盛り上がっていた。頭のあたりにタロウが寝そべっている。傍に近づいてその額に触れると、太陽の熱が圧縮されて籠っているような熱が手のひらに伝わってきた。
「よく晴れてると思った」
 おれが触ったから目が覚めたのか、そもそも眠れていなかったのか、恨めしそうな目でこちらを見る。言葉を返す力もないようだ。
 彼は元気なようでいて頻繁に熱を出した。それも体温計で測る必要もないほどの高熱を発していることが多い。こうして彼が体調を崩して寝込むと決まってよく晴れた。三日も眠れば熱は治まり回復するのだが、そうなると途端に雨雲がわらわらと集まって彼の快気を祝うかのごとくまた雨が降るので、寝込んでいる間が貴重な晴れ間ということになる。
「町田先生呼んでくる」
 意識もあやふやであろう彼にそう声をかけて手を離す。その額の生え際にうっすらと溜まっていた汗が指先に残った。心配をしているのか、タロウは急に兄貴ぶってここは任せろと言わんばかりの顔でおれを見た。なのでおれも任せたと悠晴を置いて客間を離れる。なにかあれば吠えるなり何なりしておれに知らせてくるだろう。

 診療所の受付時間よりずいぶん早い時間に電話を掛けても町田先生は快く了承してくれた。先生はおれがここに移住する三年前にこの町に戻ってきた町医者で、町田診療所の跡取り息子である。先々代から祖父と付き合いがあり、おれと同世代というのもあってか、都会の医者よりも親しみやすい。悠晴も滞在中は幾度となくお世話になっている馴染み客だった。
 町田先生は連絡してから十分とかからず訪問してきた。白衣姿ではなく紺のポロシャツに色あせたジーンズというたいへんラフな服装で、おおきな鞄を提げている。
「晴れてたからこんなことだろうと思って準備してたんだよ」
 第一声におれと同じことを言った。先生の元にも悠晴の情報は届いていたようだ。
 ひと通り診察を終えた先生はいつもと同じ解熱剤を処方した。「ケツから薬入れたらすぐ熱下がんぞ」悪い顔をして笑う町田先生に、悠晴は額に乗せていた濡れタオルを力なく投げつけた。標的に頼りなく当たって落ちたタオルを拾い上げると、つい十数分前に変えたばかりなのにもう温くなっている。タオルを冷やすために中座している間、客間からは町田先生の声が聞こえていた。
 いい歳していつまでも子どもみたいな熱出しやがって。……、今回も八月半ばくらいには行くのか。……、そうか、ちゃんと飯食ってんのか。……。
 ぽつぽつと漏れ聞こえたそれは、患者というよりも友人を気遣う声だった。

「まあいつもの熱だから心配ないと思うけど、なんかあったら連絡してくれ」
 玄関でそう言い残し、早々に先生は帰っていった。診療所の仕事に入る前にもう一軒寄る家があるらしい。改めて礼を伝えてその姿を見送る。
 おれもおれで畑の仕事があった。一度客間に戻って氷枕の様子を確かめるついでに、悠晴の額や首筋に浮かんだ汗を拭う。ふとタロウのほうを見やれば、おれの言わんとしていたことをよく理解している様子で目を合わせてきた。ここは任せろ、朝の散歩は致し方なし。賢い犬でありがたい。悠晴が布団のなかで身じろぐたびに顔を上げては彼の顔を覗き見て、また近くに伏せる。病人のことを犬に任せて自分のサイクルをようやくスタートさせる。玄関扉を開いた先には輪郭のくっきりした雲が浮かび上がり、お手本のような夏空が広がっていた。
 彼はこの夏空を知っているのだろうか。この青や、白のことを。強く照りつける日差しのことを。

 相変わらず家を訪れる者はいるし電話はよく鳴った。彼が寝込んでいる間、代わりに対応するのは必然的におれだ。世間話くらいなら聞いてやれるけれど、彼ほど多くのことができるわけではないので内容によっては断りを入れるのもおれの役目だった。
「はあ、悠ちゃん寝込んでるんね」
 以前とうもろこしをくれた山田さんは上がり框に腰かけてお茶を飲みながら、悠晴の様子に心配そうな声で言った。山田さんはこうしてよく手土産を持って世間話をしにやってくる。今回は茄子をもらった。今夏二度目である。
「雨漏りのところ直してもらおうかと思とったんやけど、無理そうかね」 
 昨夜から雨漏りしているところが二か所ほどあるらしい。このあたりの家々はどれも古いので、次から次へと綻びが出る。茄子のお礼がてら、おれが見に行こうかと声をかけると山田さんからさらに心配そうな声で「そりゃありがたいけど、大丈夫かい」と返された。心外だ。雨漏りくらい、おれも直せる。
「あんたは屋根から落っこちてきそうで心配じゃ」
 おれの二の腕あたりを擦りながら山田さんがかっかと笑う。こんなに外は暑いのに、ひんやりした、皮膚の柔らかい手だった。
 麦茶を入れたグラスのなかで氷が解けるたびに涼やかな音が鳴る。口に含んだ麦茶はその音に反してずいぶん温かった。


 悠晴の熱は三日目には引いた。そして例に漏れずその日は朝からしっかり雨が降っていた。
「三代目、散歩行くかあ」
 病み上がりであろうと彼には関係ない。熱が引けば元気そのものでタロウを朝の散歩に誘い出そうとするが、犬はそれを断固として拒否した。気がおおらかで手のかからない利口な犬なのだが、唯一、雨に濡れることを嫌うのだ。雨に濡れると必ず風呂に入れられるのをわかっているから。タロウは風呂がこの世で最も嫌いな犬だった。
「おまえはちっとも俺と散歩してくれねえ」
 彼は不服そうに言うけれど、タロウとしてもごめんだろうと思う。悠晴がいると雨が降ることをよく理解している。彼のことは好いているようだがそれとこれとはまた話が別なのだろう。悠晴が滞在している間、散歩どころか庭に下りようともしない。
 暇を持て余した彼が向かってくるのは必然的におれだ。だが生憎、こちらも納期が迫った仕事の作業で忙しい。彼が正面から作業を眺めるので多少気が散っている。見られているというだけでも案外邪魔になるので、なるべく彼を視界に入れないようにしている。ただそうして策を講じても、悠晴はひとりごとのようにぽんぽん喋りかけてきては集中力の隙間を狙って入り込もうとしてくる。
 山田のばあちゃん、最近腰が痛いんだって。三軒隣じゃないほうの山田のばあちゃん。揉んでやったらうまいって褒められておはぎくれたんだけど、それがすげえうまかったの。山田のばあちゃんの手作りなんだけど、食ったことある? また食いたいなあ。そういえば田中のばあちゃんのおはぎもうまい。甲乙つけがたいくらい、どっちも好き。田中のばあちゃんはむかし旦那さんと和菓子屋さんやってたんだって。そりゃあうまいよな。和菓子屋さんつったらさ、米田さん家の煎餅屋、そういえばいつの間にかなくなってたんだなあ。
 いちいち返事をしてやることはないが返事を必要としているわけでもなさそうだったから、おれたちの間はなんとなく成立してしまっている(米田さんの煎餅屋が去年末に店じまいをしたことは教えてやった)。そうこうしているうちに、ジリリと、隣の居間の隅にぽつんと置かれている電話のベルが鳴り、待ってましたとばかりに彼がその電話に出る。家の電話に勝手に出られることに、どうもこうも思うことがない。だいたいが悠晴宛ての用事なのだから。
「龍彦、サトウさんってひとからおまえに電話」
「天気の話でもして切っといて」
 ときに例外もあった。サトウさんとは、おれにときどき仕事をくれる元同僚である。いまは立場上、頭が上がらない。ただ、納期三日前になると確認と称して電話をしてきてはもう辞めた会社の愚痴など仕事に関係のない話の相手を延々とさせられるので、なるべく電話には出ないことにしている。


 八月の中旬。悠晴が家に来て三週間ほどが経ったころ、町田先生が夜に家を訪ねてきた。六本入りのビールセットをふたつ持って。
 盆の時期になるとこうして先生が家を訪ねて来るのがいつしか恒例行事と化していた。始まりをはっきりと憶えていないが、おそらく悠晴が町田先生を夕飯に誘ったのがきっかけだったと思う。家を訪ねてきた先生は黒いTシャツにダメージジーンズという格好だった。この日ばかりは先生もその看板を下ろして、ただの町田篤司としてこの場に参加する。
「うい。悠晴は」
「肉買いに行った。一時間くらい前に」
「どこまで行ったんだあいつ」
 三人で食事をする際、決まってメニューは焼肉だった。こんなときくらいしか出さないホットプレートが狭い卓袱台のほとんどを占領している。酒は篤司が持ち込んで、悠晴が肉を買いに行く。おれは場所の提供と宴会場の準備をする。いつの間にか決まっていた役割分担だ。家でがっつり肉を食うのもこの日くらいなものだった。
 米を炊く炊飯器の、ふつふつと忙しない音。居間で篤司がタロウに話しかけている声。台所の小窓から入り込む雨音。ささやかな音たちが台所に流れ込んで滞在するなか、雨の音は不思議と耳によく沁みこんできた。
 篤司は無視しても一方的に話しかけてくるようなお喋りなにんげんではない。結果、会話はまったくと言っていいほどなく、おれが肉以外のものを準備している間、彼はタロウと遊んでいる。そこに気まずさを感じる空気はなかった。
 悠晴はそれから三十分経ってようやく帰ってきた。盆の時期になるとちいさな商店街の店は軒並み休みに入る。精肉店ももちろん閉まるので、ここから原付バイクで十分ほどのところにあるスーパーまで肉を買いに行かせただけなのに、トータルで二時間半ほどかかった。
「いやあ、スーパーで石田のおばちゃんに捕まって一時間くらい喋ってた」
 なんともご苦労なことだ。労いを込めて麦茶を一杯渡してやると、よほど喉が渇いていたのかそれを一気に飲み干した。石田さんはおしゃべり好きが過ぎることで有名なおばあさんだ(おれたちの間で有名なだけだけれども)。一度捕まると最低でも三十分の拘束がお決まり。けっして悪いひとではないのだが、小柄な身体のどこにしまい込んでいるのか、出てくる言葉の数がマシンガンというよりも散弾銃のように感じるのでおれはよく圧倒される。悠晴ですら「あのおばちゃんは、すごい」と言ったくらいだからよほどである。
「三人で焼肉やるって言ったら、おばちゃんが特上ロース買ってくれた」
「やるなあ石田のばあさん、ありがてえ」
 たしかにありがたい。だけどこれで今度、礼を言いに行かなければいけなくなった。はたして三十分で済むだろうか。

 三人で囲うホットプレートからは焼ける肉の香ばしい匂いが次から次へと湧きだして、ふたりの胃をダイレクトに刺激し続けている。それぞれ一杯ずつ白飯をおかわりした。おれは肉をひと切れふた切れ食べ、あとは自分用に茄子やキャベツやピーマンやとうもろこしを隅っこで焼いて食べたり、冷ややっこを角からすこしずつ崩して食べたり。もともと肉はそれほど好んで食べなかったけれど、三十を越えてからはいっそう胃が耐えられなくなってきたように感じる。ひとに「もっと肉を食え」「そうだそうだ」と言っておきながら、石田さんがくれた肉のほとんどは競い合うように悠晴と篤司が平らげた。
 話すことといえば、いつもたいして中身のあるものではない。町のなかで起きたちょっとした出来事。たとえば猿がまた山から下りてきて畑被害が出たとか、駅前に新しくスーパーができるらしいとか、ひと月の間に五件も「孫をもらってやってくれ」という話が篤司に寄せられた話とか、今年も梅雨明けのほうがよく降ったとか。例年に比べてとくに降水量の少なかった今年は、悠晴の訪れをいつも以上に歓迎されていた。
「でも、もうそろそろだなあ」
 長く続く雨はそのうちひとの心を暗く染めていく。農家の多いこの町で、雨が作用する影響の大きさ。それを悠晴はよくわかっている。自分がいることの副作用を、よくわかっている。故に彼は一つ所に長く滞在することができない。帰る場所の不在。大切なものたちとの別れに立ち会えず、後になって知らされる寂しさ。それらを抱えて彼はまたこの町を去る。彼自身がどう思っているのかは知りようもないけれど、どこにも所属していない身軽さはずいぶん自由で、想像よりもずっと満たない心地だろう。
「次はどこに行くんだ」
 篤司の問いに、彼はやはり答えなかった。そして唐突に立ち上がると「ねる……」客間へ引き上げていった。
 けっして気を悪くして席を立ったのではないことはおれも篤司も承知している。これも毎年のことだからだ。三人のうち、いつも一番初めに離脱するのは彼で、たらふく肉を食いビールを飲んで普段通りに話しているかと思えば、突然立ち上がって離脱する。
 居間と隣接する客間の襖を閉ざされると、向こう側とこちら側を明確に区切られたような気になった。こちら側に取り残された篤司は「また逃げられた」と苦笑してビールを呷る。彼は医者という職業柄なのか、性格のものなのか、めげずに悠晴のことを知りたがった。なにがなんでも聞き出そうというよりは、話してもらえる内容を探っているように思う。知らないもの、わからないもの、曖昧なものがあることに気が落ち着かないのだと言う。
 おれは彼に自身のことを問うのをやめた。それは訊いても答えが返ってこないから諦めたというのもあるが、彼を知ることでここに戻ってこなくなるのではないかという考えが片隅に浮かんだからだ。知らないからこそ彼は漂うものとして存在し、またここへ戻ってこられる。おれはたぶん、来年も、再来年も、その次も、悠晴がここへ戻ってくるのを心待ちにしているのかもしれない。そしておそらく祖父も、同じ気持ちで彼の訪れをこの家で待っていたのかもしれないと思う。巡る季節のひとつのように、雨を連れてくる姿を。


 すう、と深く息を吐き出す感覚で目が覚めた。晩夏のはじまりを感じる、夜の明け方だった。
 カーテンからうっすらと透けて入る光が薄く、弱い。そして雨の音がしなかった。カーテンに指先で触れて少しだけ開けてみる。その隙間から漏れた、夜と朝が境目なく溶け合った光が薄明るく室内の輪郭を浮かび上がらせていく。一方で外の景色は弱い光のなかで霧みたいな雨に包まれて、ぼやけていた。
 おれは悟る。きっともう客間には、敷いていた布団も、リュックひとつで収まる少量の荷物も、彼の姿も残っていないであろうということを。昨日や一昨日からそうだったかのように、ここにはなにも残らない。朝になれば、雨も止んでいるだろう。


(龍神憑き/170901)