飢餓の村で考えたこと 47.48

植民地の言語政策

 

イギリスのインドを含めた植民地の言語政策は次のようなものであった。官吏は英語試験に合格したものに限られた。したがって官吏を養成するために英語で教育を行う大学が作られた。イギリスが支配した地域は広大であったため、実際には数十種類の言語が使われていた。

200年弱も続いたイギリス植民地支配によりこの地域に住む高等教育を受けた人々の共通語は英語となった。支配されていたこの長い期間、世界は激変した時期でもあった。この地域ではその間に生まれた新しい用語は英語で学ばれることになった。

新しい近代用語は自分たちが使用する言語に翻訳する努力があまりなされずに過ぎたのではないだろうか。ベンガル語もそうだった。私がいた頃のバングラは中学くらいから英語による教育が中心となり、その上のクラスでは殆どが英語による授業となっていた。

普通の生活の中でも教育を受けた人たちの議論が白熱してくると英語での討論になってしまう。英語をしゃべれることは教育を受けたことを意味した。私は英語は苦手で文法が日本語とほぼ同じのベンガル語を直接覚える方が楽だった。教育を受けた者は何かと英語を話したがる。ベンガル人が英語で話し私はベンガル語で対話を交わすということも多かった。

英語が分からないということは教育を受けていないということと同じ意味だったので私も多少は差別的に見られた。大半の貧しい人たちは教育を受けていなかったので貧しい人たちはこんな差別をされているのだと想像した。

識字者どうしが英語で会話していると貧しい人たちは議論の内容を知ることもできないのだ。これは社会の中で教育を受けた者と受けていない者との大きな断絶を生むことにもなっていたと思う。

 

近代用語のベンガル語化運動

 

近代用語をいちいちベンガル語に翻訳してこなかったつけが社会のひずみを生んでいた。バングラが独立して心ある大学の先生は近代用語を一つ一つベンガル語に翻訳する努力をされていった。しかしそれが極端に進み過ぎた授業では新語のベンガル語が多すぎてむしろ難解な授業になったようだ。

私は近代用語を日本語に丁寧に翻訳してくれた翻訳家の仕事を尊敬の念を持って見るようになった。私がバングラに行く前に出会った哲学者カール・ヤスパースの翻訳を多数されていた医師重田英世氏の仕事は日本文化の創造だったことを再認識したのだった。

私はたまたまバングラに赴任する前に重田先生の内科医院を受診し哲学者ヤスパースのお話も聞いていたので、身近に感じてしまう。

 

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