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白昼夢の終わり

油の匂いが漂う。ここは廃校になった小学校。
キャンバスに埋もれた壁と、絵の具が染みついた床。
日当たりの良いこの教室で、わたしはときどき絵画モデルをしている。

特別綺麗だとか、モデルの経験があるとか、そんなことはもちろんなく。ただ「目と鼻と口がついていたらそれでいい」と言われ、「じゃあ」と手伝うことになった。
70歳を超える雇い主は、平凡で数奇な人生の果てにここで絵を描いている。よく喋る物知りだ。

教室の隅には、2010年代に量産されたCDラジカセ。白色だったらしいプラスチックのボディは、日焼けで黄色く変色していて、実際のそれよりも時代を感じる。
そこに寄り添うように積まれたCDたちは、狭い場所で今にも崩れそうだ。
ケースのほとんどにフィルムがついていて、未開封なのかと思いきや全て袋状に開いている。雑多で几帳面な持ち主の小さなこだわり。
フィルムは捨てずに、聴き終えるたびこうして戻しているのだ。

ジャンルはクラシック、ジャズ、ブルースなど。絵を描くときに日本語は邪魔になるそうで、確かに器楽や外国のものが多い。
最近のお気に入りは、ラジオで聴き惚れてCD屋さんに探してもらったというフランス音楽。わたしはそのアルバムをリピート再生でセットし、窓辺の椅子に座る。

ほんのり山の香りを含む風。いつの間にか始まる白昼夢。

雇い主は、休憩時間になるといつもチョコレートをくれる。だんだん思うように動かなくなっていく体に文句を言いながら、自分もそれを一口。疲れた脳に糖分を送り込んで、またキャンバスへと向かう。
あと何年この時間が続くだろうか。いつか描けなくなる日が、必ずやってくることを彼は知っている。

一方モデルは、一度椅子に座ると20分は身体を動かせない。揺れる髪が頬をくすぐっても手は肘掛けに張り付けたまま。気合いでかゆみを忘却する。
視線は山の中腹あたり、周りがぼんやり霞んでいくなか、ただ一点を見つめる。
くしゃみひとつ気をつかうほどの不自由。12時の鐘が集落に響く。

雇い主の老いと、わたしの束の間の不自由が重なって、ふと学生の頃に受けた死生学の講義を思い出す。(以下、死についての表現があります。)


学科の先輩から「臨死体験」ができると聞いて、興味本位で選択した講義。
もちろん、死に臨むわけではない。でも臨死体験というからには棺にでも入るんだろうかなんて思いながら講義室に向かうと、そこに用意されていたのは一枚の紙だった。
これまで受けた学内のさまざまなワークショップに比べると正直地味だ。まさか卒業後もこうして時折思い出すとは考えもしなかった。

唯一用意されたその紙に、書くようにと指示されたのは自分の大切にしているもの。
趣味や、人や、場所など。思いつく限り書き出した。確か「家族」や「絵を描くこと」「友達とお酒を飲むこと」などと書いていたと思う。
教授は、みんなが書き終わったことを確認するとおもむろに部屋の明かりを消した。
丁寧にカーテンまで閉められ、真っ暗になる部屋。

そしてわたしは、余命宣告を受けた。

わたしというかみんな。そこにいる全ての学生が、教授のアナウンスによって残りわずかな命だと知らされる。
本当に死ぬわけではないのはわかっているが、言葉の持つ力はとてつもない。途端にざわざわとする講義室。
人によってはパニックを起こすかもしれないので、少しでも不安を感じる場合はすみやかに退出するようにと言われた。

数人が席を立ち、薄暗い部屋に足音が響く。
なんとも重たい空気だが教授は気にせず話し続ける。

わたしの病状は随分と悪いらしい。しかもそれは刻一刻と厳しさを増し、昨日までできていたことが突然できなくなるほどに。
身体の痛み、病室の景色、教授の言葉一つ一つで「もしも」の解像度が上がる。
闇の中で音は光り、ついに頭の中がジャックされた。

嫌だ。

強い拒否感に気づいたところで、「紙に書き出した大切なものから一つ消すように」とのアナウンスが流れる。急な展開に思わず現実へ引き戻される心地がした。
想像と現実の合間で、ついさっき自分が書き出した「大切なもの」を眺める。まさか手放す為に書かせられたものとは。

悩む時間は与えられない。弱ってしまった身体で今まで通り趣味を楽しめるだろうか。と、とりあえず「絵を描くこと」に取り消し線を引いた。
わたしの心は、その後どんどん忙しくなる。

大切なものが詰まった紙を握りしめたまま、どうしようもなく進行する病状。その度に流れる「手放せ」の声。
もしかしてとは思っていたが、やっぱりわたしは死に向かっているようだ。
最後に残ったひとつがあなたにとって最も大切にするべきものです。そんなやさしい話ではなかった。

時間にして20分ぐらいだっただろうか。無常にもその時がきた。
「もしも」の世界でわたしが息を止める時、最後のひとつも手から離れる。全てに取り消し線が引かれた一枚の紙だけが残った。
結局全部手放さなければならない。何も持って行くことができない。
そんな当たり前のことに気づいて心底ゾッとしたのだった。


さて、白昼夢にも終わりの時が来た。黒板に張り付いたアラームを絵具で汚れた手が止める。
10分休憩ね。とチョコレートをくれる彼の傍らにはたくさんの画集。「この絵はイタリアで本物を見た」とか「これは死ぬまでにもう一度見たい」なんてよく話してくれる。
そして最後に「長時間の飛行機にはもう乗れないけど」と付け加えて。

「老い」とは、ゆっくり死に向かうことなのかもしれない。
雇い主の彼も今まさに一つ一つ何かを手放していて、懸命に「描くこと」を握りしめている。

わたしはというと、まだ本当の意味で手放すことを知らない。
擬似体験はしたけど、絵はいつでも描けるし、海外に行こうと思えば今すぐに行ける。若さがどれほど素晴らしいかを説く彼の気持ちも、想像の域をでない。

唯一あれから、死ぬことを前提に生きるようになった。
誰もがゆっくりと手放せるわけではなく、突然その時がやってきて、否応なしに全てを手放さなければならないことだってある。
手放すタイミングは違うけど、最後はみんな同じ。

そして、そんなのわかってますよという気持ちと、少しの虚無感。

そういえば、あの講義の直後にひとりだけ目を輝かせている人がいた。文字通りお通夜モードでそれぞれが部屋を出る中、嬉々とした顔の変人。同じ学科の友人だった。
気ぃ使いで優柔不断な彼女のことだ。てっきりボロボロ泣いていると思っていたので拍子抜けしたのを覚えている。

そんな彼女が、最後に手放したのは「空想」という言葉。
当時は「(大切なものとして)それはアリなのかい?」と思ったが、何故だかひどく心に刺さった。
死生学の講義について思い出すときは、必ずセットであの顔が浮かぶし、その度に不思議と虚無感が和らぐようで。

ふと時計を見ると、短い針が随分と進んでいた。
世間話もほどほどに、聞き終えたCDを元に戻す。クシャクシャになったフィルムをかけて、今日もこだわりに付き合う。

川原菜緒



覚え書き

椅子に座るたび白昼夢をみる。
空想はきっと不自由の中の自由。
鮮やかに広がるそれは、死に向かう虚無を癒す。


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