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素っ裸で出会う

「印象に残っている素敵な出会いはなんですか」と聞かれると、ちょうど1年前、とある温泉での出来事が思い出される。

道端のススキが揺れ、遠くに香る金木犀に気づく頃、私は故郷の九州で湯船に浸かっていた。脱衣所と、地面に掘った浴槽だけのシンプルなつくり。一見温泉とは分からないほど集落に馴染む、いわゆる秘湯である。

中は狭く、6人も入れば窮屈になってしまうため、入浴時間は原則1時間。目の前の秘湯にワクワクした顔と、さっきまでの極楽タイムにほくほくした顔が、やや忙しなく入れ変わる。

そんな非日常的な場所で二人組の女性客と仲良くなった。

地酒と温泉が好きな彼女たちとは、これまでにいった旅館や、おすすめの日本酒の話で盛り上がった。お互いのことはあまりよく知らない。ただ素っ裸で湯に浸かる人間が、自己紹介がわりにそれぞれの好きなものを広げる。

それはなんとも心地のよい時間だった。「今日もまた旅館に籠って呑むんです」という彼女たちの顔がキラキラ輝いていたのを覚えている。
極楽タイムも終わり、「イトグチヤにも遊びに行きますね」と声をかけてもらった私は、ほくほくした顔で温泉をあとにした。


イトグチヤがホテルや旅館ではなく、古民家のゲストハウスという形をとったのは、この「出会い」に思いを巡らせてきた結果なのかもしれない。

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子供の頃は、意識せずともそこら中に出会いがあった。毎年クラス替えがあり、進学や就職を機に人間関係がガラリと変わる。
当時は6年や3年といった区切りになんの疑問も持たず、この先も定期的に大きな出会いのタイミングがあると思っていた。

だが人生80年。最初の20年ぐらいが特殊だっただけで、一旦就職してからは、転勤か転職をしない限り人間関係が大きく変わることはそうそうなかった。人と出会うためには「わざわざ」時間を作る必要が出てきたのだ。

「わざわざ」というと、急に腰が重たくなる。

そのうえ、大人になってからの出会いは、どんな相手と出会いたいのかがはっきりしている。「友達候補」なのか「恋人候補」なのか。理想の人物像が出来上がり、出会いの場ではその人物像が条件になってしまう。
費やした労力と見合わない結果に終わった場合は、なんか損したような気分になる。

秘湯での出会いも魅力的なものじゃなかったら_______



いや、損した気分にはならなかっただろう。
だってあれは、「わざわざ」ではなく「たまたま」だったから。


人は予想もしなかった事態に遭遇した時、素が出る。少女漫画のヒロインが、道角でぶつかった男の子を「イッタァ!」と睨むように。

一方、憧れの先輩に対しては、「試合応援してます!」なんて差し入れ持っていって、健気な後輩として振る舞う。たとえ本来の自分とは違ったとしても、相手に好かれたいという思いがそうさせる。仮に先輩とうまくいっても、そのうち素を出せないことに悩み、繕う自分に疲れていく。結局、最初にぶつかった男の子、つまり素を見せられる人とハッピーエンドになったりする。

現実だってそうで、「こんな人と出会いたい」「こんなふうに見られたい」という思いが強いと、かえってうまくいかないことがある。気合が入りすぎて、空回りして、恥ずかしくなって、帰りたくなる。

1年前の今頃。私はまさに「こんなふうに見られたい」が積もり積もって苦しくなっていた。
イトグチヤのオープンを控え、人前で話をする機会をいくつかいただいてた時期。

だからこそ、あの秘湯での「たまたま」の出会いが、強く記憶に残っているのだろう。


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イトグチヤには、この「たまたま」がたくさん転がっている。転がっているというとちょっとあれなのだけど、つまりは「予定不調和な出会い」がたくさんあるのだ。

それぞれにプライベートスペースはあるものの、共有の玄関、共有の台所、共有の縁側、となんでも共有。旅の登場人物に、他人が出てくる隙しかない。
加えて、「お野菜とれたから〜」と突然やってくるご近所さんや、「今日は外が気持ちいからね〜」と突然焚き火を始めるオーナーがいる。
それは日によって様々で、宿泊してるお客さんによっても変わる。

何が起こるかわからないというのは、期待のしようがないということだし、
先が見えないということは、何も準備できないということでもある。
でも、肩に力が入ってない分、素で楽しめる出会いがあるのかもしれない。

その時が来たらただ、自己紹介がわりに自分の好きなものを広げればいいのだ。



イトグチヤでのいつか。
起こったかもしれない出会いの一部始終はこちら。


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