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「テイラー・スウィフトはいなかった」あとがき

 私の新作小説、「テイラー・スウィフトはいなかった」が発売になりました。amazon、ネット書店のめがね書林、全国の書店から注文ができます。
 さて、下記の文章は、その「テイラー・スウィフトはいなかった」のあとがきです。
 これを読んで興味を持たれたかたは、ぜひ「テイラー・スウィフトはいなかった」を読んでみてください。

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「テイラー・スウィフトはいなかった」は、初校を書き終えてから、タイトルを考えた。

 インスタグラムやTwitterにリアルな知り合いは、ほとんどいない。ネットを通じて知り合った人たちばかりである。小説を書いている人間として、好きなことを好きに投稿している。
 ただ、Facebookだけは別だ(例外はあるにしても)リアルな人としかつながっていない。ので、投稿する内容は、多少制限している。まあ、リアルなその人たちが私のインスタやTwitterを見れば、わかってしまうので、制限する意味がないといえばそうなのだが、心情としてそうしている、ということだ。

 Facebookのおかげで、同級生と高校時代の思い出を比較的簡単に共有できるようになった。

 先日、高校の同窓会があり、出席した。それぞれの後日談のような気分で、話を聞いた。もちろん大半は、ただの世間話なのだが、そのなかには私の琴線に触れる話もあった。
 その話を小説にしたらどうだろうか、と私は思った。もちろん、高校時代の話である。
 他人には、基本的に興味がないことだろう。個人史を読まされても、辟易されるだけだ。

 でも、その時代、それはそこで実際に起こったことなのだ。

 私は書くことにした。私が書いているのは、小説なので、どれだけ多分に事実を含んでいても、フィクションである。最後に、それを断っておく。

 ただし、そうはいっても、差し障りがありそうな関係者、話を聞いた関係者がいる。連絡して、事前に原稿を読んでもらった。特に小説中に登場したYさん。Yさんの記述については、半分以上は、小説的な工夫に基づくフィクションである。と書いた上で、名前を出して、感謝を表したい。吉田亜津史さん、ありがとうございました。

「ジェフ・ミルズがいた」は最初、「私は、DJ、じゃない。」というタイトルで、「江古田文学」(1998年秋号)に発表した。別名義だった。後年、私家版として発売した。
 その後、「神様がいたダンスフロアの終わり」というタイトルに変更し、noteに再発表し、販売した。

 1993年がテクノ元年といわれているが、その後、各メディアに取り上げられ、その後押しもあって、シーンが急速に拡大していった。
 私は、1994年頃から十年間くらい、テクノのパーティによく出かけていた。
 とりわけ、1995年から1996年は、とにかく勢いがあって、会場に足を運ぶたびにわくわくしたものである。何よりお客が全員、楽しそうに踊っているのが印象的だった。スタッフまで踊っていたのである。スタッフのスタンスが警備員に近いロックコンサートとは根本的に違うものなのだ、と私は思った。
 会場には、松葉杖をついたお客もいた。さすがに踊ってはいなかったが、腰を振っていた。午前三時に、である。
 地球上の人間は、猫も杓子もみな等しく踊る、と思ったものだ。

 当時、テクノのパーティに出かけると、入口でカセットテープをくれることがあり、いまでも大切に持っている。
 私は、自宅で機材を揃え、DJを始めた。二枚のレコードをスムーズにつなぐことくらいならできるようになり、自分の好きなレコードを選んで、DJミックステープを作り、テクノが好きな友だちに配ったりしたものだ。
 そういった場所で、テクノ好きの人たちと知り合い、友だちもできた。その後、本格的にDJを始める人がいたりした。いい思い出だ。
 この小説には、そういう思い出も含めて、さまざまな思いや感慨が作者にしかわからないやりかたで編み込まれて書かれている。

 なお、改めて読み返してみると、現在とは大きく異なっていることがある。クラブの入場IDチェックが厳しくなり、未成年者は、入場できない。そして、未成年者の飲酒は、いうまでもなく、法律違反である。
 今回、その部分をすべて削除することもできたのだが、この小説は、1996年の話であり、そのころは、ほとんどのテクノのパーティでIDチェックがなかった。そのことを踏まえ、そのままにした。肯定しているわけではない。ご理解いただきたい。

 内容については、大幅に加筆、修正を加えた。

 「野中リユ」は、「ジェフ・ミルズがいた」のスピン・オフ作品である。郵便小説の一作として書かれ、めがね書林から発売した。
 「ジェフ・ミルズがいた」の話者はリユだが、ここでは、リユの恋の相手、フーガの一人称で語られる。
フーガは四十代になっている。レコード屋店員兼DJだったフーガは、小さなシステム開発会社でSEをやっている。
 この小説には、野中リユは、直接、登場しない。だが、最初から最後まで、フーガの心のなかにいて、忘れることができない。
 記憶のなかに生きている。


 この小説は、次のように始まる。

 魔法のように時間は過ぎ去る。

 その述懐は、まぎれもなく私の実感である。





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