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ピアノの音色と軽い地獄(書き出し)                 

 私の新刊「1979年の夏休み/下半身の悪魔」収録の短編「ピアノの音色と軽い地獄」の書き出しです。
 読んでみてください。

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 僕は正真正銘のストーカーだった。いいわけはしたくない。すべてのストーカーがそう告白するのかもしれないけれど、それは恋だった。
 僕も彼女も杉並区にある私立の高校に通う生徒だった。豊島区と練馬区の境にある町(僕が持っている通学定期券の区間内にある私鉄の駅)に彼女の家はあった。
 
 夏の宵闇が肌にじっとりと粘りついてくる。シャツと皮膚のあいだを大粒の汗が流れていく。小道の周りには夏草がびっしりと生えていて、そのにおいが満ちている。不快な気分が湧き上がり、まるで鎌を振り回すようにして、薙ぎ払う。曲がりくねった小道を進んだ奥の突き当り、洋風の大きな建物がきみの家だった。
 室外機がうなっている。僕は、裏庭に入った。靴音を立てないように忍び足で。きみの部屋は二階にあって、位置も知っている。きみの部屋の真下に静かに近づいていく。話し声がする。若い女の声である。でも、きみの声ではない。妹だろうか。談笑している。私はその位置で、たたずんでいる。まるでフリーズしたように。やがてピアノの音が響いてくる。練習時間は、毎日決まっている。
 クロード・ドビュッシーの「喜びの島」である。アントワーヌ・ヴァトーの絵画「シテール島への巡礼」にインスピレーションを得て作曲され、官能的な喜びが横溢しているといわれている。実際にドビュッシーという人間は、官能的な喜びを追求した男だったようだ。恋多き男で、相手のうち、女二人をピストル自殺未遂に追い込んでいるのだ。きみのピアノは、たどたどしいパッセージがたまにある気がしたが、なかなかの腕前なのではないかと僕は思う。きみのピアノの音が僕の頭のなかに鳴り響く。夢見心地のように。リズミカルに、そしてくっきりと。僕はおのずと笑顔になる。
 
 僕の転落の原因は、噂だった。きみの家の敷地にいる僕の姿を目撃した。そういう話が、きみの家の近所に住んでいるクラスメイトから出たのである。僕がきみのストーカーのようだと。まあ、反論のしようがない。その話はきみの耳にも届いたようで、高校の廊下でばったりと顔を合わせたとき、唐突に呼びかけられた。

(続)

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