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神様がいたダンスフロアの終わり (全)

 数か月に一回、中野駅近くの、中野ブロードウェイに行く。3階にあるタコシェさんというサブカル中心の小さな書店に、私の本を置いてもらっていて、清算と売れた分の補充納品に行くためだ。
 中野ブロードウェイに行くと、必ず立ち寄る古本屋がある。2階にある古書うつつと、4階にあるMANDARAKE海馬である。古書うつつは、幻想文学、詩集が中心。店頭には、40年程度前の文芸書が100円で並んでいる。
 海馬は、まんだらけの系列店だが、品ぞろえがコア。ミステリが異常なくらい充実している。外国文学も素晴らしい。国書刊行会の本が多い品揃え、といったら、わかってもらえるだろうか。ほしい本が多い。値段は、安くもなく、高くもなく。
 というわけで、毎回、私は、赤字になって、笑顔で泣いて帰ってくるのである。

 さて、ここまで5回連載してきた、「神様がいたダンスフロアの終わり  a Love story 1996」ですが、一挙に公開します。これは「私は、DJ、じゃない。」のタイトルで、同人誌「江古田文学」に発表され、その後、私家版としてひっそりと出版されたものを、全面改稿した小説です。
 紙版(改稿前のもの)は、ネット書店のめがね書林で購入可。

 満員電車って、おかずがいっぱいつまったお弁当のようね。ずっと前に、ともだち(クラブともだちのアキコである)がそう言ったとき、私はフーンとうなずきながら考えた。人類は地球のおかず。それならば、地球のごはんはいったい何だろう。地球のごはんは、地球だろうか。毎朝、道路を踏み締めているのはごはんを踏み締めていることになるのだろうか。

 で始まり、

 アイ・アム・ナット・ア・DJ。バット、クラバー。
 私は踊ることを止めない。ブライアン・フェリーのように。
 たとえ、五十年後、年齢的にお婆さんになったとしても。

 で終わる。

 400字詰め原稿用紙で、およそ160枚。
 テクノ・ミュージックのシーンが一気に盛り上がった1996年を舞台にした、とても愛着のある作品です。

 途中で有料になります。
 よろしくお願いしますm(__)m 

                  *

 
 満員電車って、おかずがいっぱいつまったお弁当のようね。ずっと前に、ともだち(クラブともだちのアキコである)がそう言ったとき、私はフーンとうなずきながら考えた。人類は地球のおかず。それならば、地球のごはんはいったい何だろう。地球のごはんは、地球だろうか。毎朝、道路を踏み締めているのはごはんを踏み締めていることになるのだろうか。ふぁー。眠気が私に襲いかかってくる。私の顔の表面はチャペルの教会にしがみつく蔦のようなもので、おおわれているような気がする。マルグリット・デュラス風にいえば、すでに人生の嵐をくぐりぬけてきたような顔、ということになるだろう。
 つまり、ひどい顔をしているのだ。
 朝の七時である。私はクラブ帰りだった。クラバー。クラブに行く人である。十八歳未満は入場できないようになっているのだが、私はオトナびているので(別名老けているとも言う)、オッケィーだった。クラブの人に顔を覚えられているというわけでもない。週末ごとにクラブには行っているが、不良少女というわけではないと思う。もちろん、夜クラブに行くことじたいが不良の証拠だと言われれば反論はできないのだけれど。私は悪いことをしているわけではない。売春もクスリもしていない。エッチも(彼氏はいるが、まだしていなかった)。
 私は毎月のおこずかいをほとんどテクノ・ミュージックのレコードを買うことに費やしている。テクノが大好きで、テクノがかかる場所を捜していたら、クラブを発見し、いつの間にか、クラブ少女になってしまった。オトコにナンパされることを目的にしてクラブに行く女の子たちとは、いっしょにしないでほしい。ソーシャライズしたいわけではない。それがいけない、というわけではなく(それは価値観の相違というものである)、私はそうではない、というだけのことだった。よい悪いではなく、ちがいがあるということ。
 ちょっと変った高校生かもしれないが、大きくはみだしているわけではないと思う。私は私の通う女子高校では、クリーンなイメージなのである。ちょいと自慢をしてしまえば、クラスで常時トップクラスの成績優秀者である。ミス・チルやドリ・カムを好んで聴いていないというだけで(そんなことをいうのならば、モーツァルトやバッハしか聴こうとしないクラシックかぶれの娘などは、どうなるのだろう)、それほど目立って、踏みはずしているわけではない。
 その日、私は朝の八時ごろに自宅に到着すると、ソッコーでベッドにもぐりこみ、爆睡(爆発したように眠ること)した。昼過ぎに眼覚めると、うちのなかには誰もいなかった。咳をしても一人(現代国語で習った尾崎放哉だ)のような気分だった。いつものことだけれど。私は独りっ子で、両親は離婚していた。パパといっしょに生活をしているのだが、パパは週末ごとに恋人のところに泊まりに行っていて(と私は推測している)、日曜日も不在の場合が多かった。若い女の声でときどき電話がかかってきていたからである。安易な、というなかれ。そうとしか思えなかったのだから。パパは何も話してくれなかったが、女がいるのだ。言いわけのようにして、しょっちゅう私に言ったものだ。
「いいかい、リユ。わたしは仕事の都合上、日曜日や土曜日には接待があって、その準備などでホテルに泊まることになる。ということは、週末、リユが何をしているか、よくわからないということだ。でも、わたしはリユのことを信じている。リユはまっすぐに育った子だ。間違ったことはしないと」
パパは信じているよという一言だけで、自分の手抜きを帳消しにして、私の行動におけるすべての問題を解決できる、と思っているのは、甘いというより、虫がよすぎると思うのだ。
 また、こんなふうに言ったこともあった。
「パパは間違ったことをした。ママと離婚したことだ。リユには、申しわけないことをしたと思っている。だから、パパはどんなことをしても、リユを守る。それだけは、いつも頭のなかに入れておいてくれ。いいね?」
 パパが間違ったことをしたのはママと離婚したことではなく、結婚したことではないのだろうかとちらりと思ったけれど、それはいくらドライな私でもさすがにそうは言えなかった。離婚の原因はこれはよくある話で、パパが会社の若い女に手を出したのである。それがママに発覚してしまったのだ。すったもんだのあげく、めでたく二人の離婚が成立した。パパは結局、会社の若い女とは別れたらしかった。離婚はいま本当に珍しいことではない。びっくりするくらい多い。クラスの八割の子が両親の離婚を経験しているくらいである(私のクラスが偶然多かっただけかもしれないが)。結婚とはいったい何だろう。どうしてみんな結婚をするのだろう。結婚とは、ほかの異性をもう好きにならない、その異性と一生添い遂げるという男女間の、契約のようなものだと思うのだが、こうなると、その設定自体にもともと負荷がかかりすぎているというか、相当に無理があるのではないだろうかという気がする。一人の異性だけを永い歳月、愛しつづけるのは基本的に無理なのではないだろうか。全国の離婚家庭の一人の娘として、私は主張したい。結婚という制度をそろそろ根本的に一度見直すべきときがやってきているのではないだろうか。
 まあ、そんなことを一人でいくら力説してみても始まらない。そんなことを言いながら、やっぱり、私だって将来(きっと)大きな勘違いをして、結婚をするのだろうから。恋だの愛だのの過ちは繰り返されるのだ。永久に、人類が人類である限り。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのように風と共に去っていかないのだ。だいたいスカーレットこそ、愛だの情熱だの純粋だのを一種の免罪符にして、過ちを堂々と繰り返しつづけている、しょうもない女ではないか。
 飛鳥風雅。それが私の彼氏の名前である。クラブで知り合った。二十二歳で(ということは、私より五歳年上ということである)DJの卵のようなものだった。渋谷の宇田川町にある輸入盤レコード屋でバイトをしながら、たまに知り合いのイベンターに呼ばれて、DJフーガの名前で、テクノのレコードをまわしている。まだクラブで、自分が主催するパーティを開くほどの実力も人気もない。DJの腕も私がみたところ、まだまだ修業が足りなかった。それでも(当然といえば当然だけれど)、私よりはずっと幅広いダンス・ミュージック全般についての知識があり、バイト柄、ニュー・リリースのレコードの情報も早い。なによりも、テクノが大好き、という趣味が一致している。ルックスはひどいほうではない。まあまあきれいなほうと言ったところ。雰囲気がどことなくTMレボリューションのニシカワくんに似ている。ロンゲではなく、髪はベリー・ショートにしていた。美形でないところは私のほうも同じ穴のムジナ(表現の使い方が間違っているかもしれないが)、同じムジナ同志である。お金をたくさんは持っていなかったが、デートのときは、私におごってくれるくらいの甲斐性はあった。
 そんなこんなで、私は片肘を張らずにフーガとつきあっていた。趣味と実益を兼ねそなえた相手である上に、楽しく、しかも優しい。白状しよう。私は幸せだった。

 
 夜、アキコから電話がかかってきた。クラブともだちのアキコである。ハンドバッグ、ハードバッグ系のパーティがあるので、こないかというのである。美人と呼ばれる人には、いくつかタイプがある、と思っている。誰が見てもいわゆる美人というタイプ。それとはべつに、ある種のセンスを持った人が見た場合には、とてつもなく美人に見えるが、その種のセンスを持ち合わせていない人には、ただの変な女というタイプ。ショー・モデル系には、このタイプが多い。
 アキコはどうかというと、後者だった。まぎれもなく。私には、すさまじい美少女に見えるが、ほかの人から見たらそうとも限らないようだった。そういう意見を(決して妬みやひがみではなく、たぶん)幾度となく聞いた。百七十五センチのタッパに五十キロの体重、髪の毛を五分刈りにして、口紅をいつも濃く塗っていた。

 アキコはブンカ、つまり文化服装学院の学生で、やはりテクノ少女だった。ブンカに入るために地方から上京してきたものの、生活費と同等、あるいはそれ以上に、おしゃれとレコードにもお金がかかり、とても仕送りだけではやっていけず、バイトをいくつかかけもちしていた。昼間の学生だから、必然的に夜間のバイトが多くなり、バイトが終ったころによく遊びの誘いの電話をしてきた。フーガにもちょっと会いたいなと思って、私は電話をしてみたが、留守電になっていて、いなかった。バイト先のレコード屋に電話すると、今日は早番で帰ったという返事だった。いったいどこをほっつき歩いているのだろう。仕方がないので、私はアキコの待つクラブに一人で行った。
 時間が比較的まだ早いのにDJが有名なせいか、すでにもう盛り上がっていた。わずかばかりの照明と、大音響のさなか、私は煙草をくわえながら、硬いキックの音に合わせて踊った。昨日オールナイトで踊って、今夜もまた踊っているのだから、自分の体力とタフネスには呆れ返る。でも、楽しいのだから仕方がない。
「疲れたから、何か飲んでくる」
 私はアキコにそう言うと、クラバーで溢れ返ったフロアから逃れ出た。ウィスキーを飲みながら、二階のバーで、踊り狂うクラウドを眺めていた。みんな楽しそうだった。音楽と暗闇と酒があれば、人生を楽しめる。人生を楽しむには、複雑なことを必要としない。それらはすべては単純なこと。それが私のポリシーである。勉強だって、グダグダ考えずにさっさとやってしまえばいいのだ。そうすれば幸せになれる。みんなは複雑にしすぎるのだ。そう思いながら、私はまたフロアに行き、四つ打ちの素晴らしい音楽に、身をゆだねた。
「そろそろ、あたし、帰るわ。明日、ガッコだし」
 私は腕時計を見ながら、すぐそばで踊っているアキコに言った。「アキコはどうする?」
「あたし、明日の授業は午後からだから、まだ、いる」
「オッケィー。じゃあね、バイバイ」
 私はそう言って、バッグをしまってあるロッカーに行った。ロッカーの扉を開けたとたんに、何かが上から落ちてきた。落ちてきたわけではなかったのかもしれない。気のせいだったのかもしれない。最初からそこにあったのかもしれない。私のスニーカーのすぐわきに、一本のカセット・テープがころがっていたのだ。どうやら落し物らしかった。
 私は狭い通路に腰をかがめて、テープを拾った。どうしよう。このまま置いておこうか。お店の人にわざわざ教えてやるほどのことではないような気がする。なんとなく、軽い好奇心も動いていた。このテープにどんな音楽が入っているのか、興味が湧いていたのだ。カセットテープを一本黙って盗んだとしても、犯罪だと騒ぎ立てられることもないだろう。私はそのカセット・テープを上着のポケットに入れた。大した意味があるわけではなかった。
 でも、それが始まりだった。あとから思い返せば、間違いなくそうだった。

 3
 翌日、翌日、私はいつものように、ガッコに行った。カセット・テープのことは昼過ぎまで、思い出さなかった。学生食堂で、カツカレー(少女の食べるものとしては、なんと夢のないものだろう。でもまあ、こんなものである)を食べて、教室に戻ると、なんとなく思い出し、鞄からウォークマンを取り出して聴いてみた。
 流れてきた音は、完全にテクノだった。しかも私好みの。ニュー・エナジー、ハードバッグ系である。なるほど、こういう選曲か。音の趣味が一致している。私がよく聴きなじんだ曲だった。やがて、途切れずに二曲目につながっていく。ミックスして、つないであった。三曲目も私がよく知っている曲だった。おや。曲を並べる順番が似ている。つなぎ方が似ている。ある曲の頭を飛ばして、いきなり次の曲の後半につなげていくところまで似ていた。ピッチが微妙に狂ってバタつくミックスまで似ていた。私はこのテープを作った人間を知っている。
 フーガだった。
 なぜなら、私も似たようにミックスされたテープを持っているのだから。

 落し主はなぜフーガのミックス・テープを持っているのだろうか。持主は、男なのだろうか。女なのだろうか。
 そのテープをもらったとき、フーガが私に言ったせりふを思い出す。
「このミックス・テープは、きみをイメージして作ったものだ。だから、きみが好きな曲がたくさん入っている。これはきみのテープだ」
私は単純にうれしかった。二枚のレコードのミックス中、ときどきピッチが微妙にずれたが、とにかく、フーガが一生懸命になって作ってくれたテープだったのだから。
 そのテープがなぜここにもう一個あるのだろう?
 それとも、これはフーガのテープのふりをしているが、本当はフーガのテープではない、のだろうか。
 その日の午後、私はもう勉強が手につかなくなってしまうほどだった。授業中も、うわの空だった。

 フーガに直接聞いてみようかと思ったが、その勇気はどうやら出そうになかった。やみくもに前進するサメのような勢いが必要になるような気がする。フーガに一笑に付されてしまいそうだった。いや。一笑に付されてほしかった。むしろ、付されないほうが問題だった。似ているけれど、ちがうかもしれない。単純に似ているだけかもしれない。わからない。まさか一本のテープでこんなふうに思い悩むとは思わなかった。テープなんて拾うんじゃなかったと後悔したが、もう遅かった。知ってしまった以上は、なかったことにはできない。ごまかせない。私は基本的にそういうタイプである。

 放課後、教室とは別棟にある、図書館に行った。一人になりたいとき、私はよく図書館を利用する。たいていがらんとして、静かで、考えごとにはもってこいの場所だったからである。私は(大いに自慢をするが)秘かに本もたくさん読む。いわばテクノ系文学少女なのだ(こんな書きっぷりで、申しわけない)。
 図書館の奥の書棚のそばにある、閲覧机にいつも顔を見る女の子が座って本を読んでいた。肩まである長い髪に切り揃えた前髪、背筋をきちんと伸ばして、まるで物差しで測ったように三十センチ、本から眼を離している。肌がとても白く、まるで美しい布のようだった。鼻筋がきれいにすっと通り、大きくてつぶらな瞳をしている(私はかつて観察したことがあるのだ)。
いつも一人きりで、連れがいたことは一度もなかった。どことなく硬く、そしてぎこちない感じがして、なぜかアキコを思い出す。似ているからではない。その反対で、ぜんぜん似ていないからである。いつも自然体で、好き勝手に生きているように見えるアキコとは、まったくちがうからである。ここにいる女の子は、きっと夜遊びなんかしないし、音楽で踊ったりもしないのだろう。アキコのように、わけのわからないエネルギーがはちきれんばかりにあふれているようには見えない。私よりも年上に見えるけれど、いったい何年生なのだろう。
 私はちらりと見て、ちょっと離れた閲覧机に座った。謎の美少女。私は秘かにそう名付けていた。本人にとっては、ちっとも謎ではないかもしれないが、私にとっては、謎、まさに大いなる謎だった。いまだに絶滅せずに、こういう女の子が存在するということじたいが謎である。これが本物の文学少女、あるいは哲学少女という人種なのだろうか。初めて認知したような気がする。私はいちおうページを開いて、本を読むふりをしようとした。
「こんにちは」
 柔らかいソプラノ・ボイスに、私は眼を上げた。謎の美少女が私のとなりに立っていたのだ。初めてのことだった。とてもびっくりした。
「こんにちは」
 私も、パブロフの犬のように返事をした。
「ここでよく見かけるから、お話したいなと思っていたんです」謎の美少女は、やはりこわばった表情で、ゆっくりとしゃべった。
「美少女がいるなって、ずっと思っていたので」
謎の美少女がそう言った。私はすごく不思議な気がして、左右に首を数回、振った。それこそ私が彼女に向かって、言いたかったせりふだったのだから。
「あたしのどこが、美少女なんですか」
 私はひどくたまげて言った。
「あら、だってとてもきれいだから」
「ワォー。どうもありがとう」
 私は素直によろこびを表明して言った。容姿をほめることばは、すべて鵜呑みにすることに決めている。そういう機会は滅多にないからである。まあ、私は鏡を見て、現実を知っているので、うぬぼれることなんか、ない。
「でも、変な子、と言われる割合のほうがずっと多いですけれどもね」私は苦笑しながら言った。
「それは素敵だということの、別称なのよ」
 ほんまかいな。心の中で思う。大阪弁である。私は大阪人ではないけれど。
「ほんまよ」
 まるで私の心の中を読んだように、謎の美少女が言った。謎の美少女は、硬い表情を崩さない。私は謎の美少女の瞳をじっと見つめた。濁りのない、きれいな瞳だった。どうやら冗談ではないようだった。このマジメぶりがちょっとこわいような気もがする。
「あなたがうらやましいわ、いつも楽しそうで」謎の美少女は硬い表情のままで、そう言った。
 楽しそう。それはそうかもしれない。というよりも、常にそうありたいと願っている。興味のあることしか興味がない。できる限り、楽しいことだけをしていたい。それも、私のポリシーの一つだった。
「何年生なんですか?」
 私は尋ねてみた。
「三年生なの」
 謎の美少女は相変らずの硬い表情で、そう言った。
「来年受験ですか。大変ですね」
「え? まあね」
 謎の美少女は力なく笑っていった。
「あなたの名前はなんて言うの?」
「野中リユ」
 私はそう言った。
「さようなら。楽しかったわ、野中リユさん。また、お会いしましょう」
謎の美少女は、初めて微笑して去って行った。光がかすかに騒ぐような、笑顔が空気中に残るような微笑だった。私はなんとはなしに、しばらくぼけっとしていた。そして、十分たって初めて、私は彼女の名前を聞き忘れたことに気がついた。

 
 翌日、ポリシーを変更する。私はカセット・テープのことは忘れようと思った。喉に引っかかって取れない小骨のような痛みはあったが、忘れられないことはないような気がする。そのとき、ポケ・ベルが鳴った。フーガからだった。私はそのとき、帰宅の途中で、本屋にいたのだが、近くの電話ボックスに入った。
「会おうぜ」とフーガは受話器の向こう側で言った。相変らずのフーガの声だった。
「うーん」私は迷っているふりをした。その声を聞いたとたんに、急にいままで放って置かれたことに腹が立ってきたのだ。
「いま、夕ごはん作っているし、パパが帰ってくるから、今日はちょっと」
 私は自分でも意外なことを言った。そんなことはまったく言うつもりがなかったのにもかかわらず。
「前はパパが帰ってきても、出てきたじゃないか」
 フーガは不満そうに言った。
「前は、前よ」と私は思いがけず強い口調で言っていた。「あたし、昔のことを持ち出す人、きらい」
「つっかかるなよ、つまらないことで」
フーガが露骨に不快そうに言った。「なんだか機嫌が悪いな、今日は」
「そんなことはないわ」
「ツンケンして感じが悪い」
 フーガは、嫌味のように言った。「わかったよ。とにかく、今日は駄目なんだな」
「そうじゃない」
私は突然言っていた。
「なんだ、それ。首尾一貫性がないぞ」
 フーガは相当に苛立った口調で言った。「会えるのか、会えないのか、はっきりしろ。いま仕事中で、忙しいんだ」
「わからない」
「わからないって」
「まだわからない」
 私はとまどいながら言った。
「会えないのなら、会えないで、べつにいいよ。さよなら!」
フーガは、頭にきたように電話を切った。その切り方はもう電話をしない、と言っているようだった。こうやって、人間関係というのは蝕まれ、壊れていくのだろうか。電話ボックスを出ながら、私はぼんやりと思った。

 それからの私の行動というのは、自分でもよくわからない、と言うしかない。私は何のためらいもなく電車に乗り込むと、渋谷に向かっていたのだ。夕食を作っている、と嘘をついていたこともがつんとキックして。制服姿のままで。
 宇田川町にある、輸入レコード屋のドアを押した。奥のレジ・カウンターに、下を向いているフーガの姿が見えた。店のなかは、大音響でハードミニマル系のテクノがかかっていた。今日はお客がたくさんいて、混みあっていた。私は迷わずに真っ直ぐに奥に進んで行った。
 フーガが顔を上げて、びっくりしたような眼で私を見た。
「リユ」
「フーガ」
 仕事中にもかかわらず、私とフーガは見つめあっていた。ほかにもいる店員の、くすくすする、笑顔の気配が伝染してくるようだった。フーガは怒っている様子はなかった。あたたかい眼で、私を見ているような気がした。見えない涙のようなものが私の胸に落ち、そして広がって行った。
「あれ、どうして制服? 夕ごはんの支度は? パパが、帰ってくるんじゃなかったっけ?」
 フーガは無邪気な眼つきで言った。
 フーガを疑うのは、よそう。あのテープは何かの間違いだ。私のただの勘違いかもしれない。私はじっとフーガを見つめた。フーガを抱きしめている自分を想像しながら。フーガは赤くなって、照れているようだった。
 こういうすてきなシーンがたまにはあるのだ、と私は思った。

 その後、バイトが終る時間を待って、フーガの部屋に行った。フーガの部屋に行くのは、これで三回目だった。六畳のワンルームマンションである。当然のことながら、レコードラックにはレコードがぎっしりと詰まっている。入りきらないレコードは、床にじかに積み重ねて置いてあった。会ったばかりのとき、レコードは三千枚くらい持っている、とフーガは言っていた。そんなことを思い出した。そのほかには二台のターンテーブル、ディスコ・ミキサー、サンプラー、シーケンサーが置いてある。レコードと機材だけで、ほとんどのスペースを取ってしまっているので、私の座るスペースはあまりなかった。カセット・テープがテーブルの上に無造作にいくつも置いてあった。それを見たとたんに私はチクチクする胸の痛みとともに思い出した。カセット・テープのことを。あのミックス・テープは、やはり、ここで作られたものなのではないだろうか。
 でも、もしここで作られたテープだったとしたら、それがいったい何だというのだろう。私はいったいどうしたいのだろう。相手が男か、女か、いまの時点でははっきりしていないというのに。私はわざわざ自らすすんで浮気の可能性を疑い、その尻尾をつかみたいというのだろうか。浮気のことなど、知りたくもなかったのに。浮気であってほしくなかったのに。虎穴に入らずんば虎子を得ず(さすがにこれは意味がちがうだろうか)。私は暗雲のようにもやもやと湧きあがってくる、その鋭く心臓をチクチク刺すような痛みを強く振り払うように尋ねた。
「ミックス・テープって、いままで何本ぐらい作ったの?」
「うーん、いっぱいあってわからない。クラブのオーガナイザーに送ったものもあるし」
 フーガは、横に首を振って返事をした。
「そのうちあげた数は?」
 フーガは軽く笑って言った。
「なんだ、過去の女に嫉妬しているのか、リユは。それもたくさんだな」
「それは過去だけ? いまは?」私は冗談めかして聞いてみた。
「いまはリユだけだよ。ほんま」
 フーガも(私と同じように)どきどき関西弁を使う。が、関西人ではない。
「ほんま?」私も、関西弁で言った。
「ほんまや」
 関西弁として正確かどうかはわからないが、フーガは、笑いながら妙なアクセントで、言った。
「どれがフーガのテープ? いちばん、新しいものを聴きたいな」
 私はテーブルの上のテープを手に取って言った。
「ああ、これだ」
 フーガはひょいと取り上げると、プロ・ユーズの大きなオーディオ・デッキのなかに入れた。ニュー・エナジー、ハードバッグ系のテクノが流れてきた。フーガがお得意のジャンルである。あのテープと同じ選曲ではなかった。でもやっぱり確かにミックスの仕方が似ている。その音がかかっている最中、フーガの手が伸びてきて、私の肩を抱き寄せた。私たちはキスをした。最初は軽く、やがて深く。舌まで絡めるほどに。フーガの手が私のベストのボタンをはずし始めた。
「あっ、あっ。今日は、そういうつもりできたわけじゃない」
 私はそう言ったのだが、そんなことにはおかまえなしにフーガの指は、私のベストのボタンをはずしつづける。ものを言わないようにするためのようにフーガの口が私の口を、ふさいだ。あ、あ、あ。やがて、フーガの唇が私の首筋を舐めはじめ、下に降りて行った。うっ。
 そしてそれは起った。あっという間のできごとだった。男と女のあいだでいつかは起ることが起きた。それだけのことだった。
 後悔はない。なかった。

 
 フーガは完全なインドア派だった。
 渋谷や新宿のレコード店(自分が勤めている渋谷のレコード店以外のレコード店にも行って、自分の店には入荷しなかったレコードもチェックしていた)、本屋、クラブ。この三点を中心に生きていた。私もおなじタイプだったので、それでつまらないとか、海や山に連れて行けよ、などとは思わなかった。
 デートらしいデートといえば、遊園地に数回、行ったことがあるくらいだ。少年時代、両親とよく出かけていたようで、強いノスタルジーを感じているようだった。特に富士急ハイランドがお気に入りのようだった。二度、行った。理由は言わなかったけれど。
 遊戯機械が単純に好きだっただけなのかもしれないが、あるいはそこには、いい思い出が埋まっていたのかもしれない。
 観覧車に乗ったときのことである。窓から見える青空と白い雲を見て、フーガは目を細めて、はしゃいでいた。
止まっているようにゆっくりと時間が過ぎていく。水のように流れる時間が目に見えるようだった。
 美しく、幸せな時間だった。

 常にクールな印象のフーガの意外な一面を見たような気がしたものだ。

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