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だまされたかもしれない男

 クラブに遊びにきている人々も、電車の乗客も、お客さんという点では変わりはないが、電車のなかではあまり起らないことが、クラブではときとして起る。
 出会いがあるのだ。それも奇妙な。
 そのとき、男と出会った。
 彼にゲイの気があるわけではない。彼だってできれば女性と出会いたい。そのほうがよっぽどいい。でも、そうじゃない出会いで、なかなか興味深いものがあるのもたしかである。

 その夜、彼は南青山のクラブ、Maniac Love にいた。
 ギャルが集うような華やかなクラブではない。そこにかかる音楽が好きで、それ目的でやってくる客がほとんどのクラブである。ナンパはない。だいたいダンスフロアーでは、爆音で音楽が鳴るので、会話などできないのだ。
 早い時間だったので、彼はバーカウンターで、ジンジャーエールを飲んでいた。見知らぬ若い男が彼をのぞきこむようにして見ていることに気がついた。アトピーを患っているように、顔の皮膚が荒れていて、目つきが幼い。ティーンエイジャーに見えるが、その年齢ではここに入れないので、そうではないのだろう。
 ぼさぼさの髪で、TシャツにPrimal Scream 「Screamadelica」のジャケットがプリントされている。ボトムはジーンズだった。
「それ、何すか」
 彼が飲み物に視線を向けていった。
「ジンジャーエール」
「超クールっすね」
 若い男が声をかけてきた。
「何の話?」
 彼は尋ねた。
「クラブでジンジャーエールを飲んでいるひとを初めて見た。すげえクール」
 彼は苦笑する。かっこつけているわけではない。酒が飲めないだけだ。胃がむかむかして、頭痛がしてくる。吐き気もする。
「おれは中卒で、フリーターなんすよね」
 彼は大卒である。芸術関係の大学で、芸術関係以外の職場に就職した。周囲には変人だと思われている。
「中学のときにクラスメイトからはぶられたんです。むかついた相手がいて、ぶん殴っちゃって。騒ぎになって、居場所がなくなっちゃって。で、不登校になって。いまもおれの居場所なんてこの世界にはなくて。バイトを転々としています」
 彼は語った。
 おれの居場所だって変わらない、と彼は思う。猫の額ほどの狭い場所で働いている。この世の居場所は誰かが与えてくれるものではない。努力して、自分が作るものだ、と彼は思う。
「じじいってサイバーじゃないっすか?」
 若い男がいった。
 サイバー? 彼は眉根をひそめた。
「心臓はペースメーカー。耳は補聴器。人間と機械が渾然一体としている。おれは、一足飛びにじじいになりたいんですよ」
「それは、大人になりたくないということ?」
 彼は尋ねた。
「大人になることに興味がないというか、どうでもいいというか、本当にどうでもいいというか」
 若い男は、どうでもいいを二回、いった。
「興味があるとかないとかじゃないと思うけれど、大人になることは」
 彼が苦笑しながら大人の意見をいうと、若い男は彼の顔をしげしげと眺めながら、
「おれ、あんたみたいな大人がいいなあ」
「おれみたいって、どういう大人だよ」
 クラブのバーカウンターで、独りでジンジャーエールを飲むような男だろうか。
「奢って下さいよ、酒」
 若い男がいった。
「いいよ」
「サンキューっす」
 若い男はすぐに飲み干してしまった。
「もう一杯、いいですか」
「二杯でも三杯でも好きなだけ飲め」
 彼はいった。
 大人になってよかったことがいくつかある。そのひとつは、見知らぬ若い男に酒を奢れるくらいの金銭的な余裕があることである。

 その男が、ただ酒を奢ってもらうためだけに彼に近づいてきた可能性に気がついたのは、数時間後のことだった。男はすでに消えていた。薄暗いダンスフロアーには客がいっぱい踊っていて、その若い男のすがたは見つけられなかった。

 あれからニ十年が過ぎている。

 あの若い男はどうしているだろうか、とときどき思い出すことがある。自分の居場所を見つけられただろうか。
 一足飛びにじじいにはなれず、大人になって、実人生を生きているだろうか。
 中学生のはぶとは比較にならないほどの、さらに深く、暗い地獄を。

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