フットプリンツ(足痕)
フットプリンツ(足痕)というタイトルをつけたが、わざわざ英語にしたのは、マイルス・デイビスあるいはウエイン・ショーターのそのタイトルの楽曲のファンだからである。
他意はない。
池袋、雑司ヶ谷霊園のそばにはよく行くが、実際に霊園に入って、お墓参りをしたのは、数回だけである。
文豪や歴史上の人物の墓を見て、ああ、本当に実在したのだな、と感慨深く思ったことを覚えている。
教科書でしか知らなかった人物が、本当にいたのだという実感。驚き。
特に夏目漱石は、中学校、小学校から知っていて、しかも、教科書に載っている作家なのに、面白かったという奇跡的な人物である。
ここ数十年で、この意見は撤回したが、若いころは、どんなに面白い小説でも、教科書に載って、強制的に読まされる読書は、面白くなくなる、というのが、私の持論だった。
いまは、面白いものは、やっぱり面白い。そういう意見に変わったが、そうなるまでに長い年月がかかっている。私は、読書を長く続けてきたから、そういう境地にいたったが、若いころしか読書しなかったヒトは、面白い小説を面白くない、と思ったままだと思うと、残念な気がしてならない。
この「フットプリンツ(足痕)」は、幻想風味のショートショートである。
*
呼び止められて、振り返った。誰もいなかった。墓石に雪がしんしんと降りつもっているばかりだった。
池袋、雑司ヶ谷霊園。
雑司ヶ谷霊園は、夏目漱石先生のお墓がある場所である。
永井荷風先生や泉鏡花先生も眠っている。
ある日、漱石先生の小説を改めて読み、感動したことがあり、漱石先生のお墓参りをする気になった。
私は、小説家志望である。高価な万年筆と原稿用紙を買い、机に向かって初めての小説を書いている。構想を練らないで書き始めてしまったせいか、たびたび行き詰まる。
そんなとき、アパートから出て、目的も決めずに歩いた。
広い道路に突き出る。やや離れたところに、信号機が見える。私はせっかちな性分なので、そこまで歩くことをせず、左右を見て、車がきていないことを確認すると、道路を横断した。
まるで猫のように、さあっと。
雑司ヶ谷霊園には、作曲家、いずみたくさんのお墓もあることを思い出した。
「ぼくらはみんな、生きている。生きているから、歌うんだ。ぼくらはみんな、生きている。生きているから、かなしいんだ」
私は口ずさみながら、歩いて行った。
「みんなみんな生きている……」
私の足がふいに止まる。
思い当たったのである。
霊園では、誰も生きていない、ということを。
いや、生きているのだ、と私は思う。作品は生きている。私たちの心のなかに。心臓の鼓動が聞こえてくる。つたわるのである。
雪が降りつもっている。
霊園には、足跡がひとつも、ついていない。子供時代、誰も踏んでいない、真っ白い雪の上を、長靴をはいて渡っていくのが、好きだった。
真新しい自分だけの足跡をつけたくて、小説を書き始めたのかもしれないな、と私は思う。
振り返った。
私の背後には、足跡がついていなかった。
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