レポート | 地域を「診る」ことは、人を診ること
いとちプロジェクトの小林歩記です。大学を休んでいとちプロジェクトのインターン生として活動しています。大学では政治学を専攻していて、医療の分野に携わる機会はほとんどありませんでした。
医療は身近な存在ではなく、むしろ、私が持っていた医療に対するイメージは、「物理的にも心理的にも自分には遠い」というものでした。病院に行って診察をし、薬局で薬をもらうという一連の動作にかかる金銭的、時間的コストが、私にとってはとても大きかったからです。
コストをかけて病院に行っても医師と話す時間は短く、困りごとをすべて話しきる前に時間が終わってしまいます。医師の先生は診察を終わらせようとしているのに、伝えきれない困りごとを話そうとしてしまい、冷ややかな視線を送られたこともありました。そんな経験から、正直なところ、医師との心の距離を感じていて、病院に行っても「親身になってくれないだろうな」といった思いを抱えていました。
医療という言葉ですら具体的なイメージしか持てていなかった私なので、「地域医療」という言葉は聞いたこともありませんでしたし、「過疎地での医療行為なのだろうか。医療者も患者も少人数なのだろうな」くらいのことしか考えられていませんでした。
そんな私ですが、地域医療という言葉に対するイメージ、距離感が変わった気がする出来事がありました。今年の3月に行われた「いとちツアー」と、その後に行われた勉強会です。地域医療という言葉に対するイメージが大きく変わった気がするのです。今日はそのことを書いてみたいと思います。
地域医療の印象が、ツアーで変わる
いとちツアーは、いとちプロジェクトの一環で行われたツアーで、杏林大学の医学生4名と私の計5名が参加して行われました。市内の各所を巡り、鹿島地区のまち歩きや、訪問診療への同行などを通じて地域医療の現場を学ぶという内容になっています。
いわき市の沿岸部にある災害伝承館に向かう車中で、いとちプロジェクトの講師、小松理虔さんがこんなお話をしてくれました。「まちをただ眺めて、きれいな場所だなで終わらせるのではもったいない。解像度を上げて景色を意識的に見てみると、そこに暮らす人たちの生活や仕事、コミュニティが見えてくるかもしれないよ」。
一人の人を構成する要素に、土地の文化、風土やさまざまな社会的背景が含まれている。そういう話だと私は理解しました。そして、そう考え直して景色を捉え直してみると、さっきまで見ていた景色の奥に、また別の光景が見え始めた気がしました。
たとえば、海の付近では、新しい家が多く建っているエリアと、古くに建てられた家が多く建っているエリアに分かれていました。新しい住宅のエリアは津波によって流されてしまったエリアなのでしょうか。もともとそこに暮らしていた方だけでなく、原発事故から逃れてきた方やサーフィンが好きな方が震災後に移住してきたのかもしれない。そんな想像が湧いてきます。
古くに建てられた家のエリアには病院を見つけました。建物は古く、かつてこの地域が漁業で賑わいを見せていた時代の医療を想像できた気がしました。きっと、漁師や水産業者など、海ならではの仕事に就いている方々が診察に訪れていたことでしょう。小松さんの話を聞いて、そこに暮らす人たちの背景が見えてくるような気がしました。
病気は、その人の「背景」がつくるもの?
一人の「人」を構成する要素に、土地の文化、風土や社会的背景が含まれている。私はさっきそう書きました。そうだとすると、病気というものにも、地域性や人間関係など、そこに暮らす人々の奥にある背景が影響しているかもしれない。私はそんなふうに考えるようになりました。
いとちツアーのあと、いとちプロジェクトが主催した勉強会で、医師から聞いた話をここで紹介したいと思います。
ニューヨークにある大学の研究によると、健康に関わる要因の半分以上が地域や社会、経済状況などの因子から成立しているそうです。この割合は、個人による健康のための行動の因子の2倍以上にものぼるのだとか。だからこそ医師は、その人が抱えている日々の暮らしのストレスや悩みを認識したうえで診察しよう、「患者」という一側面だけでなく、その土地で暮らしを営む人としてその人を診ることが必要だ。そんな話でした。
背景を知ろうとする時に大事なのは、声のかけ方や接し方だと感じます。というのも、私自身、医師との距離を感じていた大きな要因として、自分の話に共感してくれない、話を積極的に話せるような雰囲気がないなど、「接し方」に対する違和感があったからです。
医師ではない私が偉そうなことは言えませんが、その人自身を診ようと意識することで、患者に向ける表情や、かける言葉が変わると思いますし、自分の抱えている不安に寄り添ってくれると思える医師がいたら、医療との距離はグッと縮まる気がします。勉強会で先生が話してくれたことを聞いて、私はそんなことを考えました。
そして、勉強会で聞いたこの話は、いとちツアーで見た景色につながっているようにも感じます。風景の背景を知ろうとすることと、人の背景を知ろうとすること。そのスタンスには、なにか共通するものがあるように感じられるのです。
だれかの息遣いを感じとる
いとちツアーの話に戻しましょう。
伝承館に向かうまでの車内で、もう一つ、心に残った気づきがありました。理虔さんが語ってくれた「普段は見過ごしてしまうような様々な住宅や地形に注目して、そこから人々の暮らしを想像してみよう」という話です。
私は、窓の奥に見える海沿いの景色を、なにもない綺麗な場所だなとしか感じられていませんでした。理虔さんの話を聞いて、なにも想像できていない自分に嫌気がさしてきた時、理虔さんからこんな言葉をかけられました。
「なにもない場所なんてない。なにもないわけではなく、そこに民家や人が存在していたのに、震災や津波で整地されてなにもなくなったように見えるだけかもしれないよね」
その言葉を聞いてハッとしました。背中がピンと伸びる感覚がしました。私が見ているこの土地は、誰かの日常であった場所だったかもしれないと気づいたからです。この土地で生活していた人にとって大切なものが埋まっているかもしれない。沢山の感情が存在していたかもしれない。ある人が試験に合格して家族と喜びを分かち合った場所かもしれないし、抱えきれそうにもない苦しみと闘った場所なのかもしれない。
それは目には見えませんが、背景を想像し、感じることならできるかもしない。今はそんなふうに思います。
伝承館に到着して車から降りたとき、自分が浮き立っているような感覚がしました。この土地は、震災後に埋め立てられたことで実際に高くなっているそうです。なにもないのではなく、その場所で暮らしていた人々の息遣いがある。どの場所にも、その土地の人の思いがあるのだと実感しました。
私がインターンの研修で日々通うかしま病院も、病院を利用する人々、周辺で生活する人々の息遣いが詰まっている場所なのだと感じます。ある人にとっては大切な場所かもしれないし、またある人にとっては日常生活の一部なのかもしれない。そのような想像力を持つこと。謙虚に目の前の風景や人に向き合い、背景を見ようとしてみること。
そんなことを、いとちツアーや、その後の勉強会で学ぶことができた気がします。地域医療という言葉の解釈も、いわきに来たころに比べると、ずいぶん変わってきた気がします。この先で、またどんなふうに変化するのか。楽しみながらインターンを続けていこうと思っています。
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