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スピノザの生涯|國分『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書

バルーフ・デ・スピノザの生涯|年譜でたどるオランダ案内

國分功一郎 『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』講談社現代新書
を読みすすめるための、スピノザの足跡をたどるオランダ紀行

バルーフ・デ・スピノザ(Baruch de Spinoza, 1632~1677):

誕生日は11月24日
オランダの思想家。『神・人間および人間の幸福に関する短論文』『知性改善論』、『デカルトの哲学原理』、主著『エチカ』や『神学・政治論』『政治論』を残しました。宗教的迫害をのがれてポルトガルから移住したユダヤ人(マラーノ)の子孫。不敬虔の疑いでユダヤ教共同体を24歳で破門。その後は、活動の自由を守るためにハイデルベルク大学の哲学教授の招きも断り、レンズ磨きを生業の一つとしつつ、生涯、質素な暮らしで知的探究を続けた。
👉 20世紀後半以降、ドゥルーズはニーチェの先駆者として位置づけ直す(「スピノザ-実践哲学」1970)など、バリバール、マトゥロンらによって現代的意義の見直しが進められた。

スピノザは哲学者たちのキリストであり、最も偉大な哲学者達は、ほとんどこの神秘から遠ざかったりあるいはそれに近付いたりする使徒でしかない。

スピノザ-実践哲学


エピソード:
・静かに目立たずに生きることを好んだ
・名前入りの指輪には「Caute(慎重に)」と刻む
・死後出版された『エチカ』に自分の名前を入れないよう(イニシャルのBDSのみ)指示した

今回の足跡は:友人2人の書物をもとにしたスピノザ入門書から
・Lodewijk Meyer (prologue to the Principles of Philosophy, 1663)
・Jarig Jelles (preface to the posthumous works, 1677).
Henry E. Allison, 2022 An Introduction to the Philosophy of Spinoza,Cambridge University Press.

※著者はアメリカの著名なデカルト研究者

年譜からたどる足跡:

・彼の両親 (マイケルとハンナ) は、ポルトガルからのユダヤ人移民であり、「新キリスト教徒」と呼ばれたコミュニティのメンバー。彼らの文化はユダヤ人よりもイベリア人。
・彼の父、マイケル・エスピノザは、コミュニティのリーダーの一人。裕福ではないが食品を輸入する商人として成功し、いくつかの名誉職を歴任。ユダヤ人学校の校長も。3人の妻と6人の子ども。スピノザは2番めの妻ラヘルの4人兄妹の長男。生家は残っていない。



・彼らの母国語はスペイン語とポルトガル語。
・上級ラビのソール・レヴィ・モルテラは、スピノザがわずか15歳の時、少年の知性に驚嘆し、彼の素晴らしい未来を予言した。
・アムステルダムの第 2 シナゴーグのラビ、メナセ・ベン・イスラエルは、スピノザにラテン語、非ユダヤ哲学、現代言語、数学、および物理学を学ばせた。
・1653年(21歳):元イエズス会士で外交官であったヴァン デン エンデンは、デカルトを紹介し、ラテン語と科学を教えた。スピノザは彼の家に下宿して学び、彼の15歳の娘クラリアに恋したが、裕福な求婚者に負けた。(伝説?)
・弟とともに父の商社を継ぐが莫大な借金のため破産が迫る。負債を受け入れるという総督の指示に、自らコミュニティを離れ家庭教師になることで逆らった。
・コミュニティの統治評議会は事実上の独裁として機能し、共同生活のあらゆる側面を完全に支配していた. 異議を唱えることは禁止され、誹謗中傷とされた著作物の出版や主権者に対する軽視の表明は破門にされた。
・1656年6月(24歳):スピノザはモーセの律法を軽視していたという最初の告発を受け、ラビ評議会に呼び出されたが、それは否定した。次の告発では、ユダヤ人は選民であるという教義に対してであり、スピノザは告発を否定できず、自分の信念を弁護する書面を提出した。
👉 結果、30日の破門 悔い改めを拒否する
👉翌7月、ユダヤ人コミュニティからの永久追放へ 名前をベネディクトに改める。
・父が亡くなり、遺産は異母妹のレベッカが受け取る。生活のために眼鏡、顕微鏡、望遠鏡用のレンズを作って磨く職人に。
・リベラルなプロテスタント運動であり、デカルト哲学の信奉者からなるCollegiantのメンバーを獲得した。新しい哲学やデカルトの体系について研究会を開いた。その中には、スピノザの『デカルトの哲学原理』(1664)をオランダ語に翻訳したピーター・バリングも。
・1660–1663年(28歳):ライデン近くのラインスブルクに滞在。グループの本部があり、短い論文『小論』を執筆。

1660–1663年 ラインスブルクでの充実した日々

下:外科医のハーマン・ホーマンの家に下宿




・1665年(33歳):『神学・政治論』の執筆を開始する。1674年に禁書。スキャンダルとともに話題となり、17世紀中に5回も増版。

1670年-1677年 デン・ハーグ

・1670年-1677年(38歳):静けさを求めて、デン・ハーグに移住。著者名を偽り『神学・政治論』を出版。

Paviljoensgracht 72 の屋根裏部屋に引っ越す
・画家のファン デル シュピックは 1 階に絵画スタジオを構え、4 人の子供がいる彼の家族は 2 階に住んでいました。屋根裏部屋のスピノザは階下に行ってパイプを吸っておしゃべりをするのが好きでした。



※ この建物は売春宿を経営するオーナーからスピノザ協会が法外な値段で買い取ったいわくつき。毎週月曜日の14時から16時のみ公開。

https://goo.gl/maps/XiyM81jXvQMezozk6スピノザ邸 · Paviljoensgracht 72-74, 2512 BR Den Haag, オランダ★★★★☆ · 史跡goo.gl


・1672年:デ・ウィット兄弟が暴徒によって殺害されショックを受ける。「最低の野蛮人」というプラカードをつくり殺害現場に置うとするが家主が阻止。
・ルイ14世に一冊の本を捧げることを条件に年金を提示されるが丁重に辞退。
・1673年(41歳):選帝侯カール ルートヴィヒからハイデルベルク大学の哲学教授に推挙されるが、辞退する。
・1675年(43歳):『エチカ』が完成するが出版を断念。
・1676年(44歳):科学者のチルンハウスを通じて、ライプニッツがスピノザの本を読み「「耐え難いほど自由な発想の本」と評価し彼を訪問するが、スピノザは信用しきれない。
・1677年(45歳):肺病で死去。没後に『エチカ』が刊行され、翌年『遺稿集』が発禁となる。
※オランダでは1800 年以降、再評価された。スピノザに注目を集めたのは哲学者のヨハネス・ファン・フローテンによる。


ヘクサメール (1847-1924) による銅像
  • フランスの彫刻家フレデリック ヘクサメール (1847-1924) による銅像

  • 除幕式は1880 年に行われた。


  • スピノザの墓はハーグの改革派教会の墓地にあったが、子孫が墓地の賃貸契約を更新しなかったため、他の骨とともに掘り返され不明に。妹のレベッカがスピノザの遺産を相続しようとしたが、負債がまだかなりあることがわかり相続を放棄した。

  • 1677年スピノザの所有物は競売にかけられた。おもなものは蔵書でその目録をもとにスピノザの蔵書が協会のスピノザハウス図書館に復元されている。

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