いつのまにか私の一部になっていた「くるり」のこと。

くるりというアーティストのことが大好きな人は、世の中に数え切れないほどたくさんいるかと思う。

以下の文章は、新年のタイミング自分が最も好きなアーティストについて備忘録的に書き残したものであり、稚拙な表現や知識不足な箇所にはご容赦いただきたい。

蝉がうるさく鳴く夏の田舎の草むらの中で、私はくるりと出会った。
私の高校の美術部には夏合宿というイベントがあって、毎年山か海に写生に行き、1日で小さいキャンパス1枚分の油絵を完成させる。
当時美術部だった私と同学年のTちゃんは同じエリアで写生をしていて、彼女は買ったばかりのiPod miniを油絵の具まみれにしながら音楽を聴いていた。
「聴いてみる?」とおもむろに渡されたiPod miniで初めて聴いたのが、くるりの名盤中の名盤「NIKKI」だった。

くるりと私の出会いの話をするには、まずTちゃんの話をしなければならない。
Tちゃんはその頃は全然流行していなかった短めのボブヘアをした華奢な女の子で、独特な空気を身に纏っていた。
毒々しいきのこのキーホルダーを何個も持っていたり、私服は高校生にして全身無印良品で固めていたり、フワフワとした雰囲気と口調に反してとても芯の強い意見を言ったりする、不思議な女の子。
「他の人と違う自分とは?」なんてことばかりを考えていた高校生の私は、抜群の個性で輝くTちゃんに無意識のうちに憧れ、いつしかTちゃんのようになりたいと強く思うようになった。

そんなTちゃんの聴く音楽はさぞかし個性的なことだろうという期待に反して、「NIKKI」のランダム再生で流れてきた「虹色の天使」を聴いた感想は「アジカンみたいだな」だった。(後にこの感想が浅はかでアジカンにもくるりにも失礼すぎたということを実感して恥ずかしくなる)

アジカン、バンプ、エルレ、テナーで邦楽ロック沼に突入した人は同世代に大変多いと思うが、私もその中の1人である。
そんな私にとって「虹色の天使」のサウンドは非常にとっつきやすく、すんなりと耳に入ってくるものだった。

しかし、「虹色の天使」の終盤から、2曲目、3曲目と続けて聴き、徐々に私はある違和感に気づくことになる。

「普通のロックなのに、すごく切ない。」

以来、くるりが私を魅了し続けている一番の理由はこの「切なさ」なのだ。

音楽にもくるりのことにも当時よりちょっと詳しくなった今だから、「切なさ」の理由についての仮説が持てるようになった。

1つ目は、突然出現する「変なコード」である。
くるりの曲の中には、順調に進んでいたかと思うと突如として我々を「ん?」と思わせる不思議なコード進行が現れる曲が多いように思う。
その時に一瞬感じる違和感が、「ずっと続いている何かも、いつかは終わる」ことを連想させ、私を心地の良い不安に誘うのだ。
同じく私が人生のバイブルにしたいくらい大好きな「ハチミツとクローバー」という漫画があるのだが、その中でもこの「いつかは終わる」というモチーフがたびたび登場している。(ハチクロの場合は、ギャグ・ほのぼのエピソードの中にこのモチーフを非常に巧みに紛れ込ませることで、読者に知らず知らずのうちに自然な感情としての「切なさ」を覚えさせることに成功している。)
誰かにとってはそれが「聴きづらい」「ノれない」というネガティブな要素になるかもしれないが、私にはこの時の感情が新鮮で、強烈で、ずっと大切にしなければならないもののように感じたのだ。

2つ目は、異常に文学的な歌詞だ。
音楽を語る際に「メロディ重視派」と「歌詞重視派」に分かれる傾向が見られるが、私はどちらかと言うと(先程は散々メロディについて話していたのに)「歌詞重視派」である。
ちなみに、メロディ重視派の意見としては、「歌詞はメロディに合うような語呂や韻が大切」「みんながライブで口ずさみやすい歌詞が好き」などがあり、音楽の楽しみ方として私もそれには全面同意であることは伝えておきたい。
歌詞重視派の意見で多いのが「自分が感情移入できる・共感できる歌詞が好き」である。こちらもやはりよくわかり、恋をしている時には恋の歌を聴きたくもなるし、嫌なことがあったらバカヤロー、全部ぶっ壊してやると歌いたくもなる。

くるりの歌詞は上記全てに当てはまり、全てに当てはまらない。
もはやここまでくると自分でも何を言っているか段々わからなくなってくるのだが、くるりの歌詞は「純文学」に近しいと考えている。
ここは私がアレコレと説明するよりも、実際の歌詞を是非読んでいただきたいと思う。
下記に、数ある素晴らしいくるりの歌詞の中でも私が最もお気に入りのものを載せさせていただく。

雨降りの朝で今日も会えないや 何となく
でも少しほっとして 飲み干したジンジャーエール 気が抜けて
(中略)
ジンジャーエール買って飲んだこんな味だったっけな(「ばらの花」より)

大人になったら 宇宙の果てで
さみしい夜でも 明るいよ
(「さよならリグレット」より)

うちの彼氏は北区の 役所務めの20歳
えらい旅行書買いこんで はりきったはった
今日もデートは左京区 大学近くの喫茶店
はよ大人になってくれ 原チャで来はったわ
冷めたブレンド尻目に カフェラテの泡にうずもれて
いつ別れを切り出そか 煙草でうらなってた
(「京都の大学生」より)

さて、「切なさ」の話に戻ろう。

先程、歌詞重視派の意見として紹介した「自分が感情移入できる・共感できる歌詞が好き」というものだが、これはくるりの歌詞にも当てはまる。
淡々とした純文学的描写の端々に、私は無意識に自分の日常を投影する。
その時、イメージは無限に膨らみ、歌詞に直接的には書かれていない自分の感情と静かに向き合うことができるのだ。
嬉しい、楽しい、悲しい…だけではない、行間に含まれる霧がかかったような感情が聴いている私に降り注ぎ、それがたまらない切なさを生み出す。

以上の「切なさ」の衝撃と、Tちゃんへの憧れが確信に変わったことに対する複雑な自意識から、その後私は何かに取り憑かれたようにくるりを聴きまくることになる。
出会う曲全てが私に初めての感情を与え、同じ曲でも聴く度に違う側面を見せてくれる。
全ての曲が毎回新しく、毎回懐かしい。

長々と語ってしまい収集がつかなくなってしまった。
今も続くくるりの実験的で挑戦的な音楽の話や、京都音楽博覧会という最高のフェスの話、単純に岸田繁が抱かれたいほどカッコイイ話など、くるりについて話したいことは山のように溢れている。
それはまたの機会にたっぷりお話しすることとしたい。

これを読んで少しでもくるりに興味を持った方は、まずは「NIKKI」を手にとってみていただきたい。
それが、当時くるりが大好きだったTちゃんの一番のおすすめのアルバムであり、
私が夏の草いきれのにおいの中で出会ったあの素晴らしい「切なさ」に、みなさんも是非取り憑かれていただきたいのだ。

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