見出し画像

何様

 盛夏の貫くような熱線から逃げる生活を続けている。踏み締めるアスファルトは心持ち柔らかい。街角の陽炎がいつかの思い出に姿を変えてこっちを見ている。夏になると、なぜか幼少期のことを思い出しては今を遠ざけてばかりだ。
 幼少期、父方の祖父母には大変お世話になった。長期休暇になると、厄介払いで祖父母の家へ送り込まれた。朝も夜もうるさいから。大騒ぎする男兄弟を邪険にせず、いろいろな体験をさせてくれた。それが理由なのか、思い出の中の祖父母の背景は、いつも晴れていた。

 あまり大きくない夏蜜柑の木が庭にあり、太々しい顔の猫がソファーの上にいた。人懐っこいやつで、撫でてやると喉をゴロゴロ鳴らして喜ぶ。仏壇のある和室には、段ボールやトイレットペーパーの芯などが大量にストックされていて、それは工作が好きな私たち兄弟のために祖父母がとっておいてくれた物だった。大体、剣とか武器を作って絶叫しながらお互いしばき合う、みたいな遊びばかりしていた気がする。あまり怒られた記憶がないけれど、仏壇の線香をリン(音が鳴る器)とバチですりつぶして薬屋さんごっこした時はさすがに怒られた。仏壇の前で殺されるかと思った。やっぱり神様は見ているんだなぁ、と弟と話したのを覚えている。
 それでもかなり優しい方で、特に祖母が優しかった。わがままをたくさん聞いてもらった。その中でも、マッサージさせていたのは、今思い返してもおかしい。優しさに漬け込んで祖母に頼んだんだと思う。普通はしてあげるのが若年者としての正しい行いだ。それでも、足をマッサージしてもらっている時の穏やかな時間が好きでよく頼んでいた。こんなクソガキにも優しくできるほど、やはり孫という存在は、年配者の母性にぶっ刺さるものなのだ。
 そのクソガキは成人し、社会へと踏み出そうとしている。年月の経過の中で猫は死んで祖母も亡くなり記憶だけの存在になった。あるのは家とそこに住む祖父。時々会う機会はあるが、その度に縮んでいるのかと錯覚するくらい加速度的に祖父は小さくなる。それは同時に私が大きくなっている可能性も秘めていて、そうであって欲しいと願うばかりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?