生きる意味を考えるpart5

前回はこちら。

今回は生きる意味を考えることの本質から少しそれて、本能的な子孫を残すことの視点から生きる意味を考えたいと思う。

生きる意味を考える中で、人間の動物の本能的な部分として、子孫を残すことが生きる意味になりうるのではないかと考えたことがある。DNAレベルで子孫を残すことが本能として刻まれているのだから、それはある部分までは正しいのだと思う。ただ、人間は進化しすぎてしまったのだ。進化して、他の動物とは異なり、本能と理性のバランスを保ちながら生きていくことができるようになってしまった。そして、結果としていろいろなことに悩まなければいけなくなってしまった。子孫を残すことは本能的な部分で生きる意味を与えているだけにしか過ぎない。だからこそ、理性的な部分で生きる意味を考えている人にとっては、子孫を残すことは必ずしも生きる意味であるとは言えない。逆説的に言うのであれば、生きる意味を考えている動物は人間だけであると私は思っている。他の動物のそこまでの知能はないだろう。そんな人間たちが生きる意味が、他の動物と同様に子孫を残すことであっていいのだろうか。生きる意味を考えることは人間にしかできないことなのにも関わらず、その答えは人間以外の他の動物と同じであるなんて言うのはなんだか騙されたような気さえする。そういう意味では、子孫を残すことは生きる意味としては不十分ではないのかなと感じる。

しかしだからと言って、子孫を残すことは蔑ろにしていいものでもないと思う。人類がどれだけ進化しても、子孫を残すことは普遍的で不変的なものであると思ってる。それに、人間の三大欲求だって、食欲、睡眠欲、性欲だ。前2つが個人として生きていくために必要なものであるのに対して、性欲は個人として生きていくためには必ずしも必要なものではない。それでも、性欲が三大欲求に含まれるのには、子孫を残すことがそれだけ大切で重要で決して無視してはいいものではないことを物語っている。私は誰が三大欲求を定義したのかは知らないが、三大欲求の中に性欲を入れたことは子孫を残すという本能的な観点から見るととても自然なことであり、その本能的な部分に気づいたという事実はとても褒められるべきことのように思う。

そして、多くの人にとっては、ほんの数十年前までは生きる意味はその《子孫を残すこと》でよかったのだと思う。今の50代以上の人たちは、勉強していい大学に行っていい会社に就職して結婚して幸せな家庭を築くことが共通の価値観だった。何が言いたいかというと、これらのゴールは結婚して幸せな家庭を築くことだったのだ。そして、幸せな家庭の中に《子孫を残すこと》が含まれているのは紛れもない事実だ。そういう意味では、《子孫を残すこと》が人生の一つのゴールであったと思うし、それが生きる意味になっていたのだと思う。何もこれは戦後に限ったことではない。江戸時代だって、勉強や会社こそなかったものの、仕事をして結婚をして、その上で長男に家を引き継いでもらうことは、子孫を残すことに他ならない。

そう考えると、大衆にとっての生きる意味が子孫を残すことだけでは不十分になったのはここ数十年のことのように思う。そして、その数十年の間に、インターネットが登場し、情報伝達の速さがそれまでとは比較でいないほど速くなった結果、価値観が多様化していったのだと思う。そういう意味では、生きる意味を考えてしまう人は、現代の社会の犠牲者かもしれない。数十年前に生まれていれば、なんの違和感を持つこともなく結婚して幸せな家庭を築くことができていたのかもしれないのだから。

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