生きたくないということpart2

前回はこちら。

前回は《生きたくない》というのは死にたいことと同じ意味ではないということを伝えた。今回は《生きたくない》にはいくつかのレベル、程度があること考えたいと思う。

あなたはどんなときに《生きたくない》と思うだろうか。私は《生きたくない》を3段階ぐらいに分けることができて、それらは同じ《生きたくない》という言葉で表されているかもしれないが、本質的に大きく異なると思っている。

まず、最もライトな《生きたくない》は自分にとって嫌なことや気に入らないこと、マイナスなことがあったときにふと思う《生きたくない》だ。テストや仕事で失敗したとき、恋人とうまくいかなかったとき、不運なことが続いたとき心のどこかで漠然とした《生きたくない》が生まれるかもしれない。誰だって嫌なことや気に入らないことを心の底から嘘偽りなく受け入れられるわけではないし、それらから目をそらしたくなるのは自然なことだと思う。その結果として、自分が生きていなければいいと思うかもしれない。ただ、この《生きたくない》は一過性のものだと思う。嫌なことがあった瞬間には《生きたくない》と思うかもしれないが、その嫌なことを忘れてしまったら《生きたくない》ということも忘れてしまう。そういう意味で一過性であり、この《生きたくない》は時間が解決してくれるのであろう。

2つ目で中程度の《生きたくない》は自分がストレスや不快感を覚え続ける環境に置かれているときだ。例えば、職場の人間関係に疲れてしまったときは職場を変えない限りストレスが続くし、そうでなくても、自分が思い描いたあるいは第一希望の学校、会社などの理想の環境と、今自分が置かれている環境に大きな乖離があるときにはその差に不快感を覚えて《生きたくない》と思うのではないか。もちろん、それらを受け入れた上で心の中できちんと整理できるのであれば、それに越したことはない。しかし、誰だってそんな簡単に自分を変えられるわけではない。もしかしたら、そういった自分自身の中で折り合いをつけることに疲れてしまって《生きたくない》と思ってしまうのかもしれない。これに対する根本的な解決策は、やはり自分の理性的な環境に身を置くしかないと思う。良くも悪くも人間は環境には変われない。周り人間の環境は変わらないし、自分の理想も変わらない。だからこそ、解決策は新しい環境を探していくしかないのだと思う。そして、それが分からないまま、《生きたくない》を心のどこかに抱えるのはあまり優れた選択とは言えないだろう。

3つ目で最も重い《生きたくない》は、生きることに希望を見出せないことによる《生きたくない》だ。嫌なことがあったわけでも、周りの環境に納得できないわけでもない、ただ、どうしようもなく生きてるだけで、どうしようもなく生きているからこそ《生きたくない》と考えてしまう。2つ目の《生きたくない》が理想からかけ離れた今の自分に絶望しての《生きたくない》と表現するなら、この3つ目はそもそも自分に理想がないことに絶望しての《生きたくない》と表現することができる。理想がないから、目指すものがないし、やりたいこともない。ただ、人間が人間として人間らしく生きていくためには衣食住が必要だし、そのためには現代ではお金が必要だ。やりたいことは何もないのに、ただ生きているだけでお金を要求されるのであれば、生きたくないと考えてしまうのも無理がない。理想がないのにも関わらず、ただ生きるためのお金を得るためだけに働く。自分が決して生きたいと強く願ったわけでもないのに。そう、そしてこれは生きる意味を考えることにもつながる。理想がないことが《生きたくない》につながるのであれば、理想があればいい。そして、その理想の一つの本質が生きる意味である。

こうやって《生きたくない》を整理して並べてみると、《生きたくない》は思ったよりも身近にあるのかもしれないと感じる。だって、理想があっても現実がその理想からかけ離れていれば《生きたくない》と思ってしまうかもしれないし、そうでなくても理想がないだけで《生きたくない》と考えてしまうのかもしれないのだから。つまり言い換えると、《生きたくない》という感情が絶対にあり得ないのは自分の理想が叶っているときだけということになる。ただ、逆転の発想で考えるならば、《生きたくない》という感情を持つことは今の自分は理想がないもしくは、理想からかけ離れていることの現れであり、《生きたくない》という不安から逃れるために、理想を持ってそれに近づくための努力ができるともいえる。ただ、理想がない人間がどうやったら新たな理想を持つことができるのかは分からないが……。

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