ニーチェとニヒリズムと生きる意味(後編)

前編はこちら。


前編では、ニヒリズムの考え方とニーチェによるニヒリズムを簡単にまとめた。そして、私自身が考える「生きる意味がない」という考え方はニヒリズムの一例として捉えることができ、特にニーチェにとっての「神は死んだ」が、私にとっての「生きる意味がない」に似ているということだった。この後編では私が考えるニヒリズムと生きる意味について述べたいと思う。前編の最後に「ニヒリズムは”強い”理論」とニヒリズムを形容したが、私がこう形容した理由を掘り下げたいと思う。

私が「生きる意味がない」と言ったときには、私にとっては生きる意味がないだけであって、世の中の全ての人にとって生きる意味がないとは言っていないし、どちらが優れているとか劣っているというつもりもない。ただ、私にとって生きる意味がないというだけだ。例えば「あなたにとっての生きる意味は何?」と聞かれたときに「お金や物が欲しい」「あんな人になりたい」「家族や社会のため」と言ったことを生きる意味として答えるのが普通ではないかと思う。そして、私はそれは生きる意味がないことよりもとても幸せなことだと思う。ただ、ニヒリズムの考え方の前では、ここに挙げた生きる意味は全て無価値になってしまう。例えノーベル賞級の世紀の大発見をしようが、架空のヒーローたちのように地球を救おうが、不死身になろうがニヒリズムの前ではすべて無価値だ。そして、無価値だから生きる意味なんてない。

私はニヒリズムを他人に押し付けるつもりもないし、生きる意味を持っている人たちは生きる意味がない私よりも幸せに生きて欲しいと願っている。ただ、私が他人に「欲しいものはないのか?」「なりたいこと、やりたいことはないのか?」「誰かのために、何かのために生きられないのか?」と言われたところで、私は一言「それのために生きる価値なんてない」と言えてしまう。その結果、私の前ではそれらに価値はなくなってしまうし、生きる意味なんてなくなってしまうのだ。しかも、一度価値がないと認識してしまうと、再び価値があると認識するのは簡単なことではない。

もう少し具体的に言うと、あなたが生きる意味を考えたときに自分がどの段階なら価値があると思えるかというのと同じだ。ある物を手に入れるために生きることに価値があると思うならそれでいいし、何かになるために生きることに価値があるならそれでいい。誰かのために生きることに納得できているならそれでいい。そうやって価値を感じられそうなものを一つ一つ確認していって、どれにも当てはまらないと思ったら、どこにも価値を感じられないわけで、生きる意味がないことになる。ここでは「○○のために生きる価値はあるか?」と自問自答を繰り返していくだけだが、何か一つでもこの○○に当てはまるものがあれば、それがあなたにとっての生きる意味になる。逆に言えば、○○に当てはまるものがなければ、それこそが生きる意味がないことになる。

もう少し掘り下げると、ニヒリズムは「○○に価値はあるか?」という問いに対して「○○に当てはまるものはない」と答える考え方であるから、生きる意味がないというのはニヒリズムに含まれていると考えることができる。なぜなら、ありとあらゆるどれにも価値がないなら、当然ながらどれか一つとってもそれのために生きる価値なんてないからだ。ただ、生きる意味がないこととニヒリズムは同じとは限らない。○○のために生きる価値はないとしても○○に(生きるほどではないがある程度の)価値あるという可能性があるからだ。そういう意味で、生きる意味がないことはニヒリズムに含まれおり、生きる意味がないことはニヒリズムの一例だと思っている。つまり、ニヒリズムは生きる意味がないことよりも”強い”考え方だということもできる。

そんなわけで、ニヒリズムは"強い"理論だと思っているし、さらに言うならニヒリズム相手にモノの価値の有無を議論するのは、それこそ無価値で無駄でしかない。したがって、ニヒリズムの「○○に価値はあるか?」という疑問には、それ以前の問題として「○○の価値を考える価値はあるのか?」というメタ的な視点から問題点のすり替えをすることでしか解決策を見出せないように思う。ただ逆に言えば、そのようなメタ的な視点でしかニヒリズムを否定できないなら、ニヒリズムはかなり"強い"理論だと思う。そして、私は実際、ニヒリズムの考え方から抜け出せるだけの視点を持てていない。というか、きっと一生かかっても抜け出せないだろう。結局、自分自身がニヒリズムの考え方を持つ人間で、ニヒリズムの前ではあらゆるものが無価値化されるなら価値があるものなんて何一つないのだから。

ただ、これで終わるにはあまりにも救いがなさすぎるので一言だけ断っておくと、全てのものが無価値だからと言ってすぐにでも消えてなくなりたいというわけではない。なぜならニヒリズムの前には死ぬことも生きることも等しく無価値だからだ。そういう意味では、死ぬまでは生きているんだと思う。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?