生きる意味を考える


まず初めに述べておきたいことがある。それは気軽な気持ちでこのnoteを読まないでほしいということだ。生きることに何も悩んでいないなら、自分の人生に価値があると思えるなら、自分が何か必死に打ち込めるだけのものがあるなら、このnoteは読む必要がない。というか、読んではいけない。今すぐ引き返してほしい。まだ間に合うから。このnoteは人生に悩んだ人、迷った人、立ち止まった人のために書いたつもりだ。



生きる意味を考えることは呪いだ。生きる意味を考えなければ、それで幸せに生きていける。しかし、生きる意味を一度本気で考えてしまった人間は一生その呪いに悩まされてしまう。だから、生きる意味を考えてしまった人間の助けに少しでもなればと思い、私の生きる意味に対する考えを綴ってみる。

何か分からないことがあったときに現代の人が真っ先にとる行動は「ググる」だと思う。速い安いうまい?の3拍子がそろった素晴らしい選択だ(うまいってなんだ)。そして私もその例に漏れず《生きる意味》でググってみる。そうすると、仏教の教えをまとめたサイトだったり、過去の偉人の名言をまとめたサイトだったり、スピリチュアルなサイトだったり、宗教勧誘と変わらないレベルのサイトだったりと、怪しげなサイトも含めていろいろと出てくる。資本主義の世の中だから仕方のないことだけれど、生きる意味について真剣に悩んでいる人にとって、そのようなお金儲けが裏に透けて見えるようなサイトはとてもチープで胡散臭く見えてしまう。

生きる意味について悩むことは人生にとって最も崇高な悩みだと思っている私としては、それを商売にするのは生きる意味を考えているすべての人に対する冒涜ですらあると思う。逆説的に言うならば、お金を払うことで教えてもらう《生きる意味》にはそこで払った額の価値しかないと思う。1万円を払って《生きる意味》を教えてもらえたのだとしても、それには1万円の価値しかないということだ。私は生きる意味がその程度の価値しかないとは思っていないし、そもそも値段がつけられるようなものだとも思っていない。

さて、ググったところで生きる意味を見つけられないのであれば、先人たちの知恵が詰まった本に頼るのが次のステップだと思う。しかし、ここでふと思う。先人、偉人が生きる意味は何かという問いに対して、解答を見出したのであれば、それは本なんて探さなくても人類の共通の価値観として誰もが知っているべきことなのではないかと。人類が生きる意味をわかっているのであれば、それは真っ先に共有されるべきだろうと思う。だってそうだろう。今は西暦2000年を過ぎている。中国4000年の歴史という言葉だってある。それだけの歴史の中で、誰もが納得できるような生きる意味が見つけられていたのであれば、現代の人々は誰しもそれを知っているはずだ。けれど、誰も知らない。

つまり、人類は誰もが納得できるような生きる意味を見つけていない。ここで、自分がそれを見つけることができると考えるほど私は傲慢でも自信過剰でもない。そして、それと同時に理解してしまう。

生きる意味なんてない、と。

もし仮に生きる意味があったとしよう。すると、過去数千年の中で生きる意味を考えてきた人たちは無数にいるはずだ。それでも見つからなかった。人類がそれだけ考えても生きる意味を見つけられないのであれば、それはやはり答えなんてないのだろう。

もちろん、人類の誰もが納得できるような共通の生きる意味がないのであって、それぞれの個人に生きる意味がないとは言わない。各々が人生の中でやりたいことを生きる意味だと思えるのであればそれでいい。むしろ、それは幸せなことだと思う。ただ、人類共通の価値観としての生きる意味について悩んでしまった人は、自分にとっての個人の生きる意味なんてやはり考えられないのだと思う。だって個人の生きる意味を持っているのならば、生きる意味について悩んでいないのだから。だからこそ、生きる意味を考えて悩んでいる人に言いたい。その悩みに対する答えはない、と。


noteを投稿するにあたってTwitter アカウント作りました。

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