生きる意味を考えるpart4

このnoteは生きることに悩んでしまった人のためにあるもので、生きることに悩んでいない人、人生が充実している人は読んではいけない。生きる意味を考えることは呪いだ。だからこそ、考えなくて済む人は考えてはいけない。

前回はこちら。

part3では生きる意味を考えることは呪いだということを掘り下げた。生きる意味がないからこそ呪いだと述べた。ここでいう生きる意味がないというのは人類共通の生きる意味ないということであって、個人個人の生きる意味がないということを言っているわけではない。つまり、夢をかなえたい人、将来に希望がある人、今何かを頑張っている人たちに対して生きる意味がないとは言えない。

でも、誰しもが明るい未来に希望を持っているわけではない。というか、明るい希望を持っているなら生きる意味なんて考える余地はないのだ。何か希望があるなら、何かに打ち込んでいるなら、頭の中はそれでいっぱいで生きる意味を考える余地なんて残されていない。そして、それらの希望が叶わないと知ったとき、これまで積み重ねてきたものが正しかったのかと振り返ってしまったとき、目の前が真っ暗なって生きる意味を考えてしまう人がいるのだと思う。もし、ここで代わりとなる新たな希望が持てるなら、その希望に向かって再び歩き出せば、生きる意味を考えずに済むのかもしれない。つまり、生きる意味を考えずに生きていける人と考えてしまう人の違いは、人生に悩んでしまったときに、その悩みを忘れて逃避できる人間か、その悩みに真剣に向き合って考える人間かの違いでしかないと思う。前者が不真面目な人間であり、後者が真面目な人間だと考えることもできるし、前者が楽観的な人間で、後者が悲観的な人間だと捉えることもできる。あるいは、前者が大胆な人間で、後者が慎重な人間と表現するするのもいいかもしれない。

たとえば、私が誰かと話しているときに日常会話の中でなんとなく「生きる意味を考えちゃうんだよね」という話題を振ったことがある。すると、不真面目で楽観的で大胆な人間は「そんな難しいことなんて考えなくても生きていけるよ」と返事をされた。つまり、悩みを忘れ逃避できる人間は生きる意味を考えることを難しいと思っているし、難しいから考えなくてもいいと逃避しているのだ。ある意味でそれは幸せなことだと思う。だって、生きる意味を考えることは呪いなのだから、その呪いにかからないことは、呪われることよりずっといい。でも、生きる意味を考えることはそれほど難しいことなのだろうか。本来ならこの世に生を賜った瞬間に真っ先に考えるべき最も単純で重要なことではないのか。真面目で悲観的な人間は、真面目だからこそ生きる意味を考えてしまうのだと思う。

結局、生きる意味を考えることが呪いだとするなら、生きる意味を考えない人生の方が良いに決まってるし、そのためには不真面目で楽観的で大胆なぐらいがちょうどいいのだと思う。生きる意味を考えてしまった人間は、他の人より少し真面目で、少し悲観的で、少し慎重なだけだったのだと思う。だったら、少し不真面目で、少し楽観的で、少し大胆になることができれば、生きる意味を考えることも忘れて、新たな希望を持って、それを自分個人の生きる意味にして、生きていけるのかもしれないと少しだけ思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?