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タイムパラドクス・ゴースト・ライターフォーエバー

 2020年8月3日
 週間少年ジャンプ2020年35号、発売。『タイムパラドクスゴーストライター』11話掲載。

 2020年8月8日
 『アクタージュ』原作者・マツヤタツキ氏、逮捕。インターネットを中心に事件はすぐに世界中を駆け巡る。
 翌々日、事件の重さを受け、週間少年ジャンプ編集部は『アクタージュ』連載終了を発表。

 2020年8月11日
 週間少年ジャンプ2020年36・37号、発売。『アクタージュ』連載終了。未完結。
 また、時を同じくして『ミタマセキュ霊ティ』連載終了。『ミタマセキュ霊ティ』最終話の掲載順は後ろから二番目だった。

 2020年8月24日
 週間少年ジャンプ2020年38号、発売。『タイムパラドクスゴーストライター』連載終了。
 
 2020年9月19日
 千駄木某所の一軒家が全焼。奇跡的に死傷者の出なかったこの事件は明け方の千駄木をほのかに賑わせた。
 駒込警察署は出火の原因調査を進めると同時に、現場となった一軒家に当時暮らしていた青年の行方を追っているという。
 
 2020年9月20日
 2人はまだお互いを知らない。

 *

「タバコ吸っていいですか?」
 私の返事を待たずに、後部座席に座る青年が咥えたタバコに火をつけた。
「一応、禁煙なんだけど」
「あっそ」
 青年は私の言葉には構わず、平然と煙を吐く。車内に甘ったるい香りが充満する。
 せめてもの抵抗に青年が座る席の窓を開けるが、秒で閉め直された。
「暑いですね。クーラーもっと下げられないんですか?」
「私は今で十分涼しいんだ」
「屋敷くんはどう?暑いと思わない?」
 暑い、と、屋敷と呼ばれた青年が素っ気なく云う。
「二対一だ。少数派はさっさと死ねよ」
 そう云うと青年は後ろからさっと身を乗り出し、クーラーの温度を勝手に下げ始めた。袖の切り取られたTシャツの隙間から、真白なわきがちらりとのぞく。
 夏だった。
 九月だというのに、たしかにいやになる暑さだった。
 なぜ、こんな熱帯夜に、自分は車を走らせ大阪を目指しているんだろう?と不思議になる。それも、見ず知らずの青年を二人も乗せて。
 点々とした光が、ただ、通り過ぎていく。
「これくらいでいいでしょ」
 青年が、満足したように席につく。クーラーの設定温度を見ると、24度だった。流石に肌寒さを感じ、私は自分の席の窓だけこっそり開けた。うだつのあがらない風が私の頬をかすめる。かすかに虫の鳴き声が聞こえた。
 やがて冬がやってくるなんて、とてもじゃないが信じられないような日々。
 青年の吐いた煙が窓の向こうに吸い込まれていく。
 それでもまだ私は生きている。かろうじて。

 不幸にも私がこの青年二人に捕まってしまったのは、夜中の谷中霊園でのことだった。私は数年前に父親から譲り受けた軽自動車の前で、あてもなくぼんやりと墓地を見渡していた。
「おじさん、何やってるの?泥棒?」
 すると、不意に背後から声をかけられた。はじめは子供かと思った。声のトーンはどこか軽く、捉えどころがないように感じられた。世界の苦渋や辛辣をまだ知らない人間だけが発することのできる声だと思った。
 振り返ると、私よりも背の高い青年が二人、立っていた。
 うだるような夏の、人気のない墓地に。
 浮いている、と思った。この場に、彼らの存在は似つかわしくないように感じた。
 いや、しかし、それよりもなによりも、
「おじさんって……私はまだ25歳だぞ」
「じゃあやっぱりおじさんですね。僕たちは20だから」
「5つしか違わないじゃないか」
「5つも、ですよ」
 青年が笑う。ちょうど、通り過ぎる車のライトが青年を白く染めた。その青年はびっくりするくらいの美青年だった。びっくりするくらいの美青年が笑っていた。
「なあ、やっぱり辞めとこう。怪しすぎるって」
 もう一人の青年が、美青年の耳元へ顔を寄せ、ささやいた。本人の意図はわからないが、彼の声は美青年だけでなく、私の耳元へもはっきり届いた。
「大丈夫だよ」
 美青年は不安そうな青年にそう返し、一歩、また一歩と私に近づいてくる。
「この車、おじさんの?」
「そうだけど……」
「僕たち大阪に行きたいんですよ。乗せてってください」
「は?」
「足がなくて困ってたんです」
 いや、ちょっと、そんな急に、と私がまごついているうちに、青年たちは勝手に後部座席にのりこんでしまう。
「さあ、急ぎますよ。朝までには大阪に着きたいんです」
 美青年が窓から顔をのぞかせて、そう云った。
 私はいきなりの急展開に困惑したが、徐々に、どうやら、このまま何も抵抗しなければ、自分は翌朝には大阪にいるのだということを理解した。
 それも、見ず知らずの青年二人と共に。
 私は少しの間逡巡し、結局、云われるがままに運転席に乗り込んだ。
「GOOD」
 美青年がはしゃぐ。
 考えてみたが、どうも、私には、青年たちの申し入れを断るだけの理由がないようだった。ここにとどまる必要がなかった。行く宛はなく、目的もすでに失っていた。着弾点をわざと外されたような感覚が付き纏って離れなかった私にとって、これから大阪へ向かう、ということはそこまで不自然なことだとは思えなかった。どこに居たって同じなのだ、と思った。どこに至っても変わらないのだ、と思った。
 そしてなにより、青年のあまりの美しさは拒絶されることすらも拒絶していた。どうも、極端な美というのはそれだけである種の権力になりうるらしい。
 車はゆっくりと、夜の谷中霊園を離れていった。

「え、おじさん、串カツ食べたことないんですか?」
 私たちの乗る軽自動車は東京を抜け、真夜中の高速道路を突き進んでいた。行き交う車は少なく、変化のない景色に気分がくさくさしてくる。トラックが私たちを追い越していった。
「ないよ」
「なんで?ヴィーガンの人?」
「違うけど……」
「変なの」
「別にいいだろ。たまたま、そういう機会がなかっただけだよ」
「でもですよ、普通25年も生きてたら、一回くらいは入らないですか?串カツ屋」
「それが入らなかったんだよ、たまたまね」
 それに、そもそも私はあまり外食をするほうではない。たまに外食するにしても、行くのはラーメンや定食屋がほとんどだ。酒があまり飲めないのだ。飲むにしても、付き合いではじめに一、二杯嗜む程度だ。それに、そもそも私には酒を飲みに行くような友人もほとんどいない。
「ふーん。どう?屋敷くんはどう思う?25にもなって串カツの一本も食べたことない人のこと」
 あ、いや、と、屋敷青年は言葉を濁し、それから、ぼそっと、
「僕も串カツ、食べたことないんだわ……」
 と云った。
 ちょうど対向車線からやってくる車のライトが車内を照らした。バックミラー越しにうしろをのぞくと、二人は手を繋いでいた。
「大学生?」
「何です?」
「君たち」
「ああ。うん。僕は大学生。屋敷くんはフリーター。シェアハウスしてるんですよ」
「へぇ。楽しそうだな」
 私は私が住んだ家のことを思い出した。日が当たらず、薄暗い部屋。一人で佇む自分の姿を。
 一度だけ私の家に入ったことのある数少ない友人は、私の家をまるで幽霊屋敷みたいだ、と話していた。その話を聞いたのはつい先日のことだ。私が連載していた漫画が打ち切られたことを労おうと、上野の大衆居酒屋で私たちは飲んだ。値段のわりに刺身が美味しかったことを覚えている。友人は何杯目かのハイボールを飲みながら、
「きっとあの家がよくないんですよ。狭くても、やっぱり人は陽に当たった生活をしなくちゃいけないですよ。暗くて寒いところは……そりゃ、居心地はいいですけど、でも、やっぱりそんなところに閉じこもってるのは不健康ですって」
 とあつく語っていた。
 私は彼が語るのを、ジンジャーエールを舐めながらぼんやり眺めていた。
「別に楽しくはないですよ」
 美しすぎる青年が云う。
「そうなの?」
「はい」
 そうか、と私は吐き出すように云って、それで、しばらく沈黙が続いた。

 トイレに行きたいというので、私たちは途中のサービスエリアで休憩をとることにした。地図を確認すると、いつの間にか浜松のあたりまで来ていた。
 美しすぎる青年はトイレに、私と屋敷青年は身体をほぐしがてら売店をのぞいてみることになった。
「あの、」
 レジの前で、深夜に唐揚げを食べてもよいものかどうか悩んでいると、屋敷青年がそっと近寄ってきた。
「うん?」
「すいません。なんだか、無理なお願いを聞いてもらっちゃって」
 何かと思ったら、屋敷青年が申し訳なさそうにそんなことを云う。
「構わないよ。私も、その、暇、だったから」
「でも、無茶苦茶でしたよね、僕たち。ごめんなさい」
「いや、本当に謝らなくても大丈夫なんだ。なんだかんだで楽しいし」
 その言葉は事実だった。私は、まるで学生に戻ったみたいだ、と年甲斐もなく感じていた。漫画家を目指し、がむしゃらだった、あの頃のようだと思っていた。時間だけが漠然とあり、何をすればいいかなんて誰も何も教えてくれなかった幸福な時代。今となっては懐かしむだけだったあの時代が、再び私のもとへおとずれたような、そんな気分だった。
「まあ、君の連れの、彼はちょっとばかし無礼なところはあるけどね」
 と、冗談まじりに云うと、屋敷青年も苦笑いを浮かべながら、
「ほんと、すいません」
 と謝る。それで、私たちはなんとなく打ち解けた空気になった。
「彼、いつもあんな感じなの?」
「いや、今日は特別です」
「特別?」
「今日がとても良い日になると思っているです。いちごちゃんは」
 いちご、というのか、あの美しすぎる青年は。随分変わった名前だ。本名だろうか?屋敷青年に訊いてみようかとも思ったが、本名であろうがそうでなかろうが、どちらでも関係ないことだと考え直し、やめた。
 かわりに気になっていたことを訊く。
「君たちの歳だと、この時間に唐揚げ食べるのって、セーフ?」
 唐揚げってあんまり好きじゃないんですよね、と屋敷青年は答えた。

 眠気覚ましに缶コーヒーだけ買って、外のベンチに座りチビチビと飲む。生暖かく湿気を含んだ空気が肌に纏わりついてそれが不快でしかたない。
 こんな長距離を車で走るのは随分久しぶりだった。身体はまだまだ若いが、心がもうすっかりしょぼくれてしまっていた。
 なんとなしにスマートフォンを手にする。連絡、ゼロ。今ではもう、私に連絡をくれるのはあの友人一人になってしまった。連載が決まったときはこうじゃなかった。どこから情報が漏れたのか、地元で私のことをおもちゃのように扱っていた人間から一斉に連絡がきた。誰もが、過去、私にした仕打ちなど忘れ、まるでずっとそうだったかのように親しみのこもったメッセージを送ってきた。それでも、私は嬉しかった。私はついに自分の価値を稼いだのだと思った。
 しかし、それも長くは続かなかった。連載が進むたび、私に応援の言葉を投げかけてくれる人間の数はわかりやすく減っていった。いや、それどころか、酷いものだと私を直接誹謗中傷するようなメッセージを送ってくる人間すらいた。《才能ねえよ。ウソつき》。才能云々はともかく、私には嘘をついた覚えなどなかった。なぜ、私がウソつきになるのだろうか?才能があるフリをしたからか?才能があるフリをして、勝手に期待させてしまったからか?才能がないというだけで、人は、なぜ。
 インターネットはもっとひどかった。そこには私の漫画を読む人間は一人もいなかった。かわりに、私が魂を削って描いた一コマを切り抜き、大喜利のようなコメントをつけて笑うような人間が蔓延っていた。彼らにとって私の漫画は、ただ都合の良いおもちゃにすぎなかった。
 悲しい。
 おもちゃ程度の価値しか稼ぐことのできなかった自分が悲しかった。
「老人が黄昏ている」
 振り返ると、いちごちゃんが立っていた。
「駐車場なんて眺めて楽しいですか?」
 いちごちゃんが私の横に座る。
「おもしろいよ。色々な人生があるんだなって感じる」
 ちょうど、トラックから50代くらいの男が降りてくるところだった。男は大儀そうに身体を伸ばし、それから、大量の空き缶が透けるレジ袋を抱え、トイレ前にあるゴミ箱へ歩いていった。右足の曲げ方がどうも不自然だった。
「へぇ、人並みの想像力はあるんだ。見直しました」
「バカにしてるだろ」
「そりゃ、まあ、深夜に一人で墓地にいるような大人に、ろくな大人はいないですから」
 いちごちゃんの言葉は素晴らしく正論だった。
「屋敷くんは、もう戻りました?」
 駐車場を見つめながら、いちごちゃんが訊く。
「ああ、戻ったよ。さっき、君の連れに謝られた。彼、良いやつだな」
「そうですね。たまに、こっちが怖くなるくらいに」
「……好きなんだろ、君のことが」
 その言葉を聞いたいちごちゃんは、目を白黒させ、私の顔をじっと見つめる。
「なんだよ」
「……いや、ちょっと、予想外のセリフにびっくりしました」
「そうかい」
 照れているのか、なんなのか、もう戻りましょう、と云って、いちごちゃんが立ち上がる。
「あ、そうだ。なぁ」
 車のほうへ歩いていくいちごちゃんに向かって、私は訊く。
「大阪には何しに行くんだ?教えてくれよ」
 いちごちゃんは振り返り、
「死んだ人に会いにいくんです」
 と笑った。

 *

 静かだった。私たちは名古屋を超えたあたりでもう一度休憩をとった。今度は私と屋敷青年がトイレに行き、いちごちゃんは外の空気を吸うために少し外に出ただけだった。
 トイレを出ると、小汚い老人がいて、にいちゃん、ジャンプ買わへん?と聞いてきた。意図がわからず、私は首を振ってその場を離れた。あとで屋敷青年に聞くと、そのような老人は見ていない、と云われた。
 サービスエリアを出て、しばらくはまだポツポツと会話があった。だが、滋賀に入ったところでそれもなくなった。眠いのかもしれない、と思って後部座席を確認すると、二人ともきちんと目は開いていて、お互いに窓の外をぼーっと眺めていた。
 深夜の4時。
 音もなく、光もなく、行き交う車もない。
 いつか、この体験も漫画にする日がくるのだろうか?と思う。
 連載が終わってから、まだ一度もペンを握っていなかった。何を書くべきなのか、何を書くことができるのか、何を書きたいのか、もう、全く何もわからなかった。
 たまに怖くなる。
 いつか、報われる日がくるのだろうか?と。
 今、私が抱いている葛藤のようなものや、苦しみのようなものや、不安のようなものが、きちんとすべて昇華される日がやってくるのだろうか?
 私はここではないどこかに行きたかった。
 私は自分ではない何者かになりたかった。
 私は誰もに認められる人間でいたかった。
 私は1000年後の世界で生き残りたかった。
 私はただ一人でいい誰かを救いたかった。
 果たして、それらが叶う日が、いつかやってくるのだろうか?本当に?
「おじさんってさ、何してる人なんですか?」
 ぽつりと、いちごちゃんが漏らした。
「いまさらそれを聞くか」
「うん。僕もそう思いました。でも、なんだか、聞きたくなったんです」
「漫画家……だったよ、少し前まで」
「へぇ。どこで描いてたんですか?」
「ジャンプ」
「すごいじゃないですか」
「もう打ち切られちゃったけどね」
 自嘲気味に笑いながら、私は答えた。
 あ、もしかして、と屋敷青年が声をあげる。
「なに、屋敷くん、知ってる漫画?」
「いや、たぶんだけど」
「あたってると思うよ」
 私が云うと、いちごちゃんが興味を持ったようで、どんな漫画?面白かった?と屋敷青年を質問攻めにする。あきらかに屋敷青年が返答に困っていることが、背中越しに伝わってきた。
「いいよ、正直に云ってほしい」
 そうなのだ。私はいつだって正直な感想を欲していた。地元の人間や、インターネットの連中が語るような、余計なフィルターのかかった感想はもうウンザリだった。
「……面白くなかった、です」
 それを聞いたいちごちゃんが、盛大に吹き出す。私も、それに釣られてつい大きな笑い声をあげてしまった。自分の漫画が面白くないと云われているのに。それなのに、なぜか、屋敷青年の言葉が無性に嬉しくて仕方がなかった。
「本当は1000後に残るような漫画家になりたかったんだ。でも、才能がなかった」
 だからか、なぜか、私は今だけは素直になれた。正直に、自分に才能がないと認めることができた。
 いちごちゃんは笑いながら、私の言葉を聞き、なに云ってんですか、と輝かしく云い放った。
「1000年後に残りたい?そんなの簡単ですよ。死ななきゃいいんです。1000年後まで生き残って、それでダメでも、3000年後なら認められるかもしれない。死なないかぎり、回答権はずっと与えられ続けるんです。ねぇ、単純でしょう?死ななければいいんです」
 そう、断言する。
 美しく断言する。
 いちごちゃんの美しい断言を聞いていると、なんだか不思議と、本当に3000年だって4000年だって生きられるような、そんな気持ちにさせられる。
 突拍子もない、デタラメな論理を真剣に信じてしまう自分が可笑しくて、だから私は、間違いないな、と叫び、それから狂ったように笑い続けた。
 笑っていると、いつの間にかそこは大阪だった。
 
 高速を降り、細かな一般道をいちごちゃんに案内されるままに走らせ、梅田ブルク7という映画館の前で二人を降ろした。
「あの、本当にありがとうございました」
 屋敷青年が丁寧に頭を下げる。
「ああ。元気で」
「おじさんはこのまま東京に帰るの?」
 いちごちゃんが訊く。
「いや、せっかくだし、ちょっと大阪を観光してみるよ」
「うん。それがいいですよ」
 大阪はいい街です、と語るいちごちゃんの表情はどこか晴れやかで、
 だから、私は云うはずのなかった言葉を云ってしまう。
「死なないでくれよ」
 と。
 それを聞いたいちごちゃんは、目を白黒させ、私の顔をじっと見つめて、それから、ぷっと吹き出した。
「何それ。死ぬわけないじゃないですか。バカみてー」
 それを聞いた屋敷青年が、どこかホッとした顔でいちごちゃんの手を握る。
「おじさんこそ、元気でね」
 私が、じゃあ、また、と云うと、いちごちゃんはおどけてバハハーイと大きく手を振った。

 まだ街は薄暗い。ただ点滅するだけの信号機を無視して走ることができる無敵の時間。
 一人になった車内が嘘みたいだった。
 さっきまでいたはずの、誰かと、誰か。
 ラジオをつけると、東京の千駄木で全焼した家の住人が見つかった、というニュースが流れてきた。住人は28の青年で、青年はヤケになって自分で自分の家を燃やしたものの、燃え落ちていく我が家を見ていると急に怖くなって、身を隠すように漫画喫茶で寝泊りしていたとのことだった。なぜ青年がヤケになったのか、そこまではニュースで語られていなかった。
 顔も知らない青年と違い、私には帰るべき場所がきちんとある。そのことをきちんと認識する。私はきちんと帰る。成すべきことを成す。死ぬまで。生きているあいだに。がむしゃらに。
 確かに私には才能はないかもしれないが、しかし、時間だけはあるのだ。
 それも、きっと、まだ、無限に。
 だから、そうだな。
 まずは串カツでも食べに行こうかな、と思った。
 やがて夜が明け、朝が来る。

いとうくんのお洋服代になります。