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晴れの日の日曜日(2019/12/02)

 そのパンダはあるアパートの一室の、ロフトの上で暮らしている。元々の家主は死んだ。腐敗臭が下から漂ってきて不快だ、とパンダは思う。誰か早くあれを処理してくれ。しかし、死体が処理されるとこの部屋も同時に引き払われてしまうため、パンダは複雑な心境だった。パンダには、まだ耐えられないほどではない、と自分に言い聞かせ、家主の腐敗が少しでも遅れるよう祈ることしかできない。
 ロフトの上には、漫画本や、漫画本ではない書物がたくさんある。ここに住み始めて数ヶ月、パンダはそれらを読んで過ごした。面白いものもあれば、理解できないようなものや、少しエロいもの、普通にエロいもの、面白くないもの、感性に刺さるもの、全く何の感想も抱けないもの、様々あった。パンダは毎日毎日、それらを読み漁った。他にやることなど何もなかった。たまには大自然のなかで思い切り笹を食いたいという衝動にかられることもあった。衝動は厄介だ。しかし、パンダにはここから出て行く術などなかった。ある種の禁欲をパンダは強いられることになった。あらゆる書物に触れるたび、自分はここで老い、朽ちていくのかと苦悩せざるを得なかった。自意識ばかりが肥大し、行動が伴わないへなちょこパンダはこうして生まれた。
 書物を全て読み終えてしまうと、パンダは暇になった。やることがなくなったパンダは、死んだ家主を自身の内面に創造し、遊ぶことにした。
 こうして僕は生まれた。僕の一人称はパンダによって、『僕』に決められた。前に下から「僕はもうダメかもしれません」と呟く声が聞こえてきたことを、パンダは覚えていた。
 パンダは、まず僕を外に出した。よく晴れた、日曜日の午後だった。パンダは、雑誌で見たレモンラーメンを食べてみたかった。僕はレモンラーメンを食べに、荻窪へ向かうことになった。
 バスを使い、荻窪まで向かった。僕は荻窪には数回しか行ったことがなかった。いずれも、駅前を少しだけうろついただけで帰った。たぶんそのはずだ、とパンダは考えた。レモンラーメンのお店はもっと奥まった、商店街の中にあった。商店街の感じは少し高円寺とかに似てるな、と僕は思った、とパンダは思った。
 席につき、しばらくするとレモンラーメンがやってきた。本当にレモンがラーメンの上に乗っていた。僕は酸っぱいものは嫌いじゃなかった。むしろ、好きな方だった。パンダはそういうことに決めた。僕は酸っぱいものが好きになった。
 スープを一口飲む。びっくりした。本当に酸っぱい。ラーメンなのに!レモンが乗ってなかったら、もっとびっくりしているところだった。レモンが乗っているから、かろうじて、これは酸っぱいものなのだと脳が認識することができる、とパンダは僕が考えているのだと考えた。もしレモンが乗っていなかったら、スープを一口飲んだところで、やっぱこいつ酸っぱいわ。もうダメだ。酸っぱい。と箸を投げてしまっていたかもしれない。レモンが乗っていてよかった、と僕は思った、とパンダは思った。
 しかし、レモンラーメンは不思議とラーメンとしての体裁は崩しておらず、案外あっさりと完食することができた。ていうか、美味しかった。レモンラーメン、うま!笹食ってる場合じゃねえ!とパンダは思った。僕はそんなことは思ってなかった。
 それから、僕はぶらぶらと荻窪駅から阿佐ヶ谷駅まで歩いた。途中ラーメン二郎の前を通りかかったので寄って行こうかと思ったが、閉まっていた。僕は泣いた。
 僕には肉体がないから、望めばいくらだって、なんだって食べることができる。
 それから、歩き疲れた僕は駅前の喫茶店で珈琲を飲んだ。ボーッとした。僕はなぜか疲れていた。パンダは、僕がパンダに僕のこの疲れを治してほしい、と思っていることにして、それを無我にし、むしろ余計に疲れさせるなどして遊んだ。僕は喫茶店の店内でなぜか肩を外されて泣いていた。やめてよ、と訴えても、それはパンダが僕にそう言わせているだけなので、当然聞き入れられることもなかった。僕は悲しかった、とパンダは思った。
 僕は肩を外された状態で吉祥寺まで鍋を買いに行かされた。すっかり日も暮れ、寒かった。パンダは暖かな部屋のなかで、薄着で鼻水を垂らす僕のことを想像した。それは結構愉快なことだと感じた。
 僕は寒くて鼻水を垂らしながら、ニトリで鍋を買い、イトーヨーカドー食品館で野菜を買った。
 すっかり震えながら、僕はようやく家に帰ることを許された。
 パンダはロフトの上で、家に帰ってきた僕の気配を感じた。
 僕は玄関で靴を脱ぎながら、ロフトの上で寝そべるパンダの気配を感じた。
 僕は買ってきたばかりの鍋を洗った。それから、浴室のシャワーで僕の身体を綺麗に洗い落として、まだ腐っていない部分だけを選んで、切り落としていった。
 右腕はまだ全体的に綺麗なままだった。左腕は小指だけ腐っていたので、捨てた。お腹の脂肪はぬらぬらしていて、あまり食欲をそそらないが、しかし腐ってはいなかったので残した。内臓は全体的に黒ずんでいたから流石にまとめて全部捨てた。両足と性器はまだかろうじて食べられそうだった。頭は目玉がずり落ち、頬がこけていたので、脳みそだけくり抜いて、後は捨てることにした。
 浴槽に湯船をため、塩を瓶丸々溶かし、そこに僕の肉体を浸けた。
 僕はこれから僕を食べるのだ、とパンダは僕に考えさせた。それから、その時の僕の気持ちを想像しようとしたけど、うまくいかなかった。だから今、僕は無感情のまま僕の肉体を鍋にうつし、野菜と一緒にぐつぐつと煮ている。
 僕はここに何かを感じるべきなんだろうけど、僕を動かすパンダは今、上野のヒーローになる妄想に忙しくて僕の感情にまで頭が回らない。
 だから僕は美味しかった、と思うことにした。

おわり

いとうくんのお洋服代になります。