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タイムパラドクス・ゴースト・ライター

 少年が笑った。隅で。場所はなんてことのない教室。体育を終えた男子たちがグラウンドの土と自分の汗で汚れた体操着を脱ぎ、かわりに首元が黄ばんだカッターシャツに着替えていた。あちこちでシーブリーズの噴射音が鳴る。それでも教室中に充満する、干からびた野球ボールの臭いは濃いままだ。
 窓際の一番後ろの席を取り囲むようにして、男子たちがゲーム機のメモリーカードをやり取りしている。
「これ?」
 男子Aが、押し殺したような声で云う。
 男子Bも同じ調子で、
「うん。云われてたやつ、全部入ってる」
 と過剰に低い声で、囁く。男子Bの気分はすでに麻薬のプッシャーだ。
「サンキュー」
 男子たちは忍び笑いを漏らす。メモリーカードのなかには、違法ダウンロードしたアダルトビデオの動画データが保存されている。痴漢モノ2本、女優モノ1本、それと、性欲ではなく好奇心から入れられたスカトロモノが1本。どれも五分程度の、商業AVの抜けるところだけを切り取った、とても短い動画だ。メモリーカードを受け取った男子Aは、嬉しそうにそれを筆箱にしまう。スカトロモノの動画は部活の後に部室でみんなで見ようと決めていた。あとの動画は、まあ、気が向いたらその後に少しだけ見せてやってもいい、と男子Aは思う。自分は特別なものを手に入れたという高揚感が、性欲を少しだけ上回っている。
「え、ていうか、お前、スカトロのやつ、見た?」
「見た。マンコにはモザイクかかってるのに、ウンコはくっきり映っててウケるから」
「まじかよ。きたねー」
「まじまじ。きたない」
 ゲラゲラと笑いが起こる。
 小学生まで虐められていた男子Bは、違法ダウンロードしたエロ動画をばら撒くことで、中学生活をサバイブする。その甲斐あり、女子にはモテないが、男子に虐められることはなくなる。
 まだインターネットが全ての家庭には普及しきっていない時代。
 家に自由に使えるパソコンがあるというだけで、教室での地位を確立することができた幸福な時代。
 少年は、ゲラゲラと笑う二人の男子生徒を、ぼんやりと眺めている。時折、笑うそぶりだけ見せる。
「お前もいる?」
 少年は問われる。少年は曖昧に笑う。少年は漫画のことについて考えている。

 2009年。夏。少年にとって世界はまだ暗くも寒くもなく、ただ、漠然と何かが足りないとだけ感じていた。
 窓ガラスが開け放たれた教室。セミの鳴き声が薄ピンク色のカーテンを揺らす。体育の後の気怠い午後を、誰もが重い瞼と格闘し、黒板を睨み付ける。科目は理科。理科を受け持つ男性教員は、素行の悪い生徒に容赦なく教科書の角を叩きつけてくるので、生徒たちは誰もが必死に黒板の文字群をノートに書き写している。みんな痛いのは嫌だった。
 もちろん、少年も。
 少年は黒板の、意味のわからない文字の羅列をノートに書き写しながら、空想する。別の漫画の主人公を戦わせたり、漫画の主人公を自分に置き換えてみたり……。それは睡魔を打ち負かすための手段であり、戯れにすぎない。意味なんてないことは少年自身が一番わかっている。それでも、少年には時間だけが無限にある。無限の時間がすべて、少年の脳髄のなかでだけ無意味に消費されていく。しかし、誰もそのことを悲しんだりはしない。
「今日は9日なので……じゃあ、出席番号20番。この問題やって」
 理科の先生が教室中を見回し、云う。
「え、なんで、今日も俺っすか」
 20番の男子が不服そうに漏らす。
「いいから前にでなさい」
 20番の男子は渋々といった様子で壇上に立つ。チョークも持ち、黒板に書かれた問題文を前に過剰に身体を硬直させる。
「うーん……2?」
 自信のなさげな態度とは裏腹に、20番の男子の声は教室中にきちんと響き渡る。
「何をどうしたら植物の問題で数字が出てくるんだ……」
「だって先生、俺、人間だもん。植物のことなんてわかんないよ」
 20番の男子がおどけた調子で云う。教科書の角で頭を叩かれる。賑やかな笑いが起こる。20番の男子は照れくさそうに笑っている。理科の先生は小動物に向けるような目で20番の男子を見つめている。
 全てはあらかじめ決められていて、自分たちに自由な意思なんてないんじゃないかと、少年は思う。20番の男子は一度だけ理科の先生にそのまだ幼い陰茎を舐められたことがある。
 
 理科の授業が終わって、放課後になった。
 少年は同じ部活の仲間と連れ立って、部室へと向かった。少年はサッカー部に入っていた。だが、サッカーをしていて楽しいと感じたことは一度もなかった。両親に勧められるままサッカー部に入って、一度も楽しいと思うことなく、ただ、まじめにボールを蹴っていた。
 外に出た人間をゲンナリさせるのに充分すぎるほどの快晴だった。大きな地震が起こったり、危険なウイルスが世界中で蔓延したり……。そういうことでもあれば、自分はもうサッカーをせずにすむのだろうか、と少年は考えて、んなアホな、と自嘲気味に笑った。
 部室にはすでに何人かの部員が来ていて、各々練習が始めるまでのわずかな時間を過ごしていた。ある部員たちは集まってゲームをやり、ある部員たちは真面目な顔で練習メニューについて話し合い、ある部員たちはグラウンドに出て遊びでボールを蹴り、ある部員たちは何もせず喋ることもせずただ虚空を見つめていた。少年はカバンを部室の隅に投げ、今日練習が終わってからのことを考えていた。帰り道はいつも憂鬱だ。帰り道が同じ方向のサッカー部員は誰もが少年のことを下に見ていた。少年の役割はいつだっておもちゃだった。運よく、他の部活の部員と一緒になればその役割はそいつに回っていくかもしれないが、そうでなかったら悲惨だった。少年はいつか自分はダメになってしまうかもしれない、と漠然と考えていた。それが数週間後か、数ヶ月後か、はたまた数年後かはわからない。一体、自分はいつまでおもちゃでいなくちゃならないんだろう?
 部長の掛け声で、部員たちが一斉にグラウンドに飛び出した。
 まずグラウンドのまわりを何周か走らされ、身体が暖まると次はペアを組んでパス練習をさせられる。少年といつもペアを組む男子は今日は休みだった。中耳炎になったとかで病院に行くらしい、と部室で誰かが喋っているのを少年は聞いていた。「だっさ」とまた別の誰かが笑っていた。少年も一緒になって「だっさ」と笑った。
「あいてる?やろう」
 ボロボロのサッカーボールを手にオロオロする少年に声をかけてきたのは、チームのレギュラーで、ゴールキーパーをやっている男子だった。少年の所属するサッカー部にゴールキーパーは2人いて、いつもゴールキーパーはゴールキーパー同士でペアを組むのが慣しだったが、今日は片方のゴールキーパーが部活をサボったとかでいないらしかった。
 少年はそのゴールキーパーの男子が苦手だった。しかし、他にペアを組むメンバーもいなさそうだったので、仕方なく少年はこくんとうなずき、ボロボロのボールを地面に落とした。
「やだ、そんなボール使いたくない。こっち使おう」
 とゴールキーパーが持ってきたのはまだ比較的新しい、皮の禿げていないボールだった。少年はボロボロのボールをゴールへ向けて強く蹴りつけた。少年の蹴ったボールは空を浮き、ゴールの少し手前で地面に落ちた。ボールはずぼ、と鈍い音を立てて、それ以上跳ねる様子も進む様子もない。少年の持っていたボールは空気が抜けていた。

「今日、一緒に帰ろうよ」
 厳しい練習のあと、ゴールキーパーの男子が少年にそっと囁いてきた。ふんわり甘い匂いが少年の鼻腔をくすぐる。自分と同じく汗だくのはずなのに、なぜゴールキーパーの男子は全然臭くないのだろう、と少年は不思議に思った。少年はうなずいた。いつものメンバーと帰らなくて良いことが嬉しかった。
 部室に入ると、いつも一緒に帰るメンバーがいて、彼らは順々に少年を軽く小突いた。少年はヘラヘラと笑って、ただその場をやり過ごした。全てが無意味だと思った。少年はさっさと着替え、おい、どこ行くんだよ、というメンバーの声を無視して、ゴールキーパーの男子のもとへ赴いた。少年は帰ろう、と云った。ゴールキーパーの男子はすでに着替え終えていて、シャワーでも浴びたあとみたいに小綺麗な顔で、うん、とうなずいた。少年とゴールキーパーの男子は他の部員たちにろくに挨拶もせず、部室を出て行った。誰も何も云ってこなかった。
「チャリ?」
 ゴールキーパーの男子が駐輪場を指差し、云った。
「ううん。歩き」
「あれ、家、遠くないっけ?」
「うん。遠い。でも、ギリギリ自転車通学が許されないところなんだ」
「きびいね」
「うん。きびい」
 きびい、と少年は心のうちで反芻する。聴き慣れない言葉だった。ゴールキーパーの男子は、たまに他の誰も使わないような言葉遣いをする。少年はそういうゴールキーパーの男子の言葉を聞くたびに、なんだか妙に緊張してしまって、だから、少年はゴールキーパーの男子のことが苦手だった。 
 ゴールキーパーの男子も徒歩通学だった。二人は、校門の前に立ち生徒に挨拶するだけの教員の横を無言ですり抜け、校舎をあとにした。
「ああいうの、アホみたいだよね」
 ゴールキーパーの男子が校門に立つ男性教員を後ろ指で差し、笑った。少年も、うん、とうなずいて、それから、笑った。
 こっちから行こう、とゴールキーパーの男子が横道を曲がるので、少年もそれにつづいていく。下校中の学生の姿が消え、人かげは向こうからやってくる老婆一人だけになった。
「今日もだるかった」
 と、ゴールキーパーの男子が呟いた。少年も、だるかった、と呟いた。
「ていうか、真夏なのにヤバいよね。ゴールの前で見てて、よく走りまわってられるなと思うもん、他のやつら。大変すぎ」
「ゴールキーパーも大変だと思うけど」
「そんなことないよ。くっそ楽。だって、基本、立ってるだけでいいし」
「でも、ボール、止めなきゃ。試合中プレッシャーすごそう」
「プレッシャー?全然。ぜーんぜん。まったくないね。サッカーってさ、相手にシュートを打たせちゃダメなんだよ。そういうゲームなんだ。だから、点を取られても、責任はシュートを打たせてしまった選手にあるわけ。大体、あんなはやい球飛んできて、取れるわけないじゃん」
 むりむり、とゴールキーパーの男子は笑った。
「たぶん一番気楽なポジションだと思うよ、キーパーって。ほとんど幽霊みたいなもんだもん」
 なるほど、と少年は思った。納得したうえで、自分にはできなさそうだな、と思った。自分にはきっと、点を取られて、その責任をフィールドの選手になすりつけるような真似はできない、と思う。
「大体、他のやつらが真面目すぎるんだよ。部活って云ったって、所詮、中学生の遊びじゃん。たかだか遊びにガタガタぬかして、怒号を飛ばして、真剣な顔で眉をひそめて、汗を流すって、はたから見ててサムすぎ」
「……」
「あ、ごめん。別に君のこと悪く云うつもりはないよ?」
「いや、えっと、うん」
「でも君もよくやってるよね。別に上手いわけでもないし、他の部員にはいいようにおもちゃにされてるし。なに、そこまでしてサッカーやりたい?」
「……いや、正直、全然」
 少年は悪さが見つかった子供のような、バツの悪い表情で答えた。
「やっぱり?」
 ゴールキーパーの男子が笑う。ゴールキーパーの男子はよく笑う、と少年は思う。少年が云う。
「部活入るの強制だから、仕方なくやってるって感じ」
「ま、だよね。ていうか、部員のほとんどがそんな感じでしょ。強制されて汗流してるだけなのに、これが青春でござるみたいな顔してね。アホばっかだよ、ほんと」
 少年はこの数分間で何度も世界がひっくり返るような感覚を覚えている。少年にとって、部活は真面目に汗水垂らしてやるものだし、それは無条件に称賛されるものだった。しかし、今、ゴールキーパーの男子はそれらをすべてサムい、アホ、ゴミ、カス、ウンコだと一笑に付している。
 そしてなにより、そんなゴールキーパーの男子の姿勢こそ正しいと感じている自身の心象が、少年には驚愕だった。
「君ってさ、家ではなにしてるの?」
「……漫画を、読んでる」
 だからか、なぜか、少年は今だけは素直になれた。正直に自分を語ることができた。ゴールキーパーの男子なら、きっとわかってくれるのではないかと思った。
「漫画、好きなんだ?」
「……うん」
 それは、少年にとってとても勇気のいる肯定だった。自分のこれまでの人生がすべて試されている、とすら感じた。
「あ、じゃあさ、おもしろい漫画貸すからさ、ちょっと寄っていきなよ」
 と、ゴールキーパーの男子が笑う。本当によく笑うなぁ、と少年は思う。拒絶も否定もされないことが、少年はただ、嬉しい。 
 
 少年はゴールキーパーの男子の家の前で待つ。どこかで肉じゃがの匂いがした。まわりには田んぼと田んぼと田んぼしかなく、そのうちの一つからは煙があがっている。まだ外はまったく明るいままだった。少年は田んぼの前にしゃがみ、カエルを探すが一匹も見つけられない。
「おまたせ。これ、貸すから、読んでみてよ」
 ゴールキーパーの男子が制服姿のまま出てきて、紙袋を少年に渡す。紙袋のなかには漫画が三冊だけ入っている。チカチカと、あぜ道に停められた車のライトが点滅する。少年はありがとう、とお礼を云う。ゴールキーパーの男子が、返すのいつでもいいから、と笑う。少年がバイバイ、またね、と云うと、ゴールキーパーの男子はおどけてバハハーイ、と大きく手を振った。

 少年は家に帰って、母親がつくった夕飯を食べて、お風呂に入って、今日中に仕上げなければならない宿題が残っていないことを確認してから布団に入る。布団のなかで、思い出してゴールキーパーの男子に借りた漫画を開く。
 そこには漫画のすべてが描かれている。
 
 次の日、部室に行くとゴールキーパーの男子はすでにいる。昨日サボったもう一人のゴールキーパーと、楽しそうに話している。
「これ、ありがとう。面白かった」
 少年は紙袋をゴールキーパーの男子に突き出す。
「あ、もう読んだんだ。どうだった?」
「うん、」
 少年が感想を語ろうとするのを遮るように、隣で勝手に紙袋のなかを覗くもう一人のゴールキーパーの男子が、んー?んー?と唸った。
「何、お前、漫画好きだっけ?」
 もう一人のゴールキーパーの男子が問う。少年は曖昧に笑っている。少年は漫画について考えている。
 少年はそれから卒業するまで、ゴールキーパーの男子と喋ることは一度もない。

 その日の帰り道。3人分の荷物を持たされながら、少年は考える。
 少年はここではないどこかに行きたい。
 少年は自分ではない何者かになりたい。
 少年は誰もに認められる人間でいたい。
 少年は1000年後の世界で生き残りたい。
 少年はただ一人でいい誰かを救いたい。
 
 少年は漫画が描きたかった。

 2009年。
 それは僕が文学の守護神とする作家の著書をリサイクルショップで発見するよりも、たった一冊の小説に人生を変えられるよりも、ずっと前の時代。
 夏。
 2人はまだお互いのことを知らない。

いとうくんのお洋服代になります。